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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(五十五) 私の守り神
「音楽を聴いて頂きましょう。」
と言って網守子は、先ず胡弓を取り出した。
「是は五年前に島で用いて居た、あの古い胡弓ですよ。」
と言い、其の時梨英に聞かせた島歌の一曲を奏したが、梨英は甚(ひど)く感心して、
「音楽には、貴女は珍しいほどの天才です。其れに修養を積んだので、昔とは全く違いました。アノ時には姿勢にさえ、申し分が有りましたのに。」
網「そうです。貴方に其の姿勢では、若し都の貴婦人の前へでも出れば、笑われると言われ、私は貴方の前で泣きました。」
成るほどそうであった。梨英は昨日の事の様に、ハッキリと思い出した。
次に網守子はピアノに向かい、梨英の心を引き立てるのに、役立つだろうと思う様な曲を選び、様々に弾じたが、梨英は聴くに従って、非常に感動し、
「網守子さん、もう私は聴いて居られないほど、感動しました。貴女の音楽には音響の美しさの外に、霊妙な在る声が有って、一々に曲の伝えようとする意味を、人の心へ浸み込ませます。何して是ほどの進歩が出来ました。」
網守子はピアノを離れ、
「今も言った通り、全く貴方の言葉に励まされたのです。私は稽古して居る間、絶えず貴方の言葉が耳の底に響いて居る様に思い、モッと進まねば梨英に逢った時に笑われる、モッと勉めねば梨英に褒められることは出来ないと、常に自分の身へ意見して居ましたの。」
梨英の身は揺(ゆら)いだ。
「其れは全く貴女の心に、非常な強い点が有る為です。アア実に羨ましい。私なども其の様に、自分で自分を励ますことが出来れば好いのに。」
まさしく梨英の心は、網守子が望む通りの気分に成ったらしい。網守子は両手に梨英の手を握り、
「私を励ましたのは、貴方では有りませんか。人を励ます貴方が、自分を励ますことが、出来ない筈は有りません。梨英、梨英、自分で自分を励まして、昔の通り、希望に満ちた、勇気の有る心にお成りなさい。貴方は常に大発展と口癖の様に言って居て、其の言葉は、今でも私の身の守り神の様に成って居ます。是から心を持ち直して、大発展に勉めて下さい。」
真心から出る網守子の言葉は、梨英の真心へ徹する様に響いた。彼は胸も張り裂ける程に、身にしみて心に深く感じ、我知らず立ち上がって、
「網守子、網守子、実に私は大発展をしなければならないーーー、けれどーーー、アア、今は遅い、取り返す道が無い。私は堕落の底に達した。自分の人格をさえも失った。何も彼も貴女へ打ち明けて話しましょう。」
網「イイエ、イイエ、私は何も聞くには及びません。」
と制した。
先刻網守子が聞かせて呉れと言った時は、梨英が拒み、今梨英が聞かせようと言えば、網守子が拒む、自然に深く信じ合う心が通うのである。此の様な時に、二個の魂が溶けて、一つになるのでは無いだろうか。
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