simanomusume56
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(五十六) 其の人に逢ひましたか
梨英が打ち明けて話そうと言うのは、既に自分の身が、人に人格を売る迄に落ちぶれて、最早網守子から、深い同情を受ける資格も値打ちも無いと、知らせようと思うのである。網守子が聞くに及ばないと言うのは、何の様に零落しても、梨英を信ずる自分の心は変わらないので、此の上梨英には恥ずかしい想いをして、打ち明けさせるには及ばないと思うのである。
網「何の様な事が有ろうと、貴方は昔の通り希望に満ちた心に返り、是から大発展の道へ歩み入って下さい。私は修行して居た五年の間、毎日貴方の大発展を思い続け、ロンドンへ行けば、今は梨英が必ず豪(えら)い人に成って居るであろう。彼の名がどれほど高く成って居るか、きっと世の人々から尊敬せられ、大天才として輝いて居るに違い無いと思い、少しでも貴方に似なければ成らないと、唯貴方のみを手本にして貴方の事のみを思って居ました。
其れが此の都へ来て見れば、路田梨英の名を、知る人さえ無いでは有りませんか。私の失望を察して下さい。けれど私は其れを何とも思いはしない。直ちに私は思い直しました。貴方が今、現在の事まで失望するには及びません。今までの事は夢と思い、今から改めて立派な路田梨英に成って下さい。」
此の言葉が心に浸み入らない筈は無い。梨英は首を垂れ、両の拳を握り〆め、唯だ、
「残念だ、残念だ。」
と呟(つぶや)くばかりである。
網「其れですから、私は此の都に来て、初めて同姓の寒村家と言う家へ招かれ、社交界の人々に引き合わされた時に、寒村男爵が、今夜は大天才に紹介して遣ると言われました。其の大天才とは必ず貴方の事と思い、自分の身が貴方の前へ出れば、五年の修行も、何の甲斐も無く、自分の身が何れほどか見劣りのする事かと、恐ろしいやら、恥ずかしいやら、出来ることなら身を隠し度いと言う程にも思いました。イイエ、貴方の事と思う筈です。
私は、大天才とは、路田梨英の外には無いと思い、雷鳴を轟かせて居るなどと言われ、全く自分が、未だ貴方の前へ出る資格も無い程に感じました。其れに寒村男爵は、其の人の書いた浪の絵を見ると、全く海の際に居る様な心持がするなどと言われましたので、愈々貴方と思い詰め、嬉しくも有り、恥ずかしくも有る。私は何うしようかと思いました。」
其の人が誰であるかは、梨英の察し得ぬ筈は無い。
彼は忽ち首を挙げ、殆ど腹立たしそうに、網守子の顔を見、鋭い声で、
「して貴女は其の人に逢いましたか。」
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