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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(六十二) 詩と人とは違います
三万五千円(現在の約三千六百万円)とは、驚くべき大金である。今の網守子の身には、用意出来ない事は無いにしても、オイソレと返事は出来無い。
詩集の詩の美しさを思えば、貸しても遣り度い。けれど其の人を思うと気が進まない。詩は如何にも天才の詩と思われる。けれど人を見ると、何うも天才の人とは思われない。是が網守子の直感である。正直な女の直感には、何うかすると千里眼の様な力が有る。
其れに網守子は先夜から、梨英と江南とを思い比べない訳には行かない。梨英を気の毒に思うに連れ、何だか江南に反感が起こって来る。梨英の裂き捨てた銀行小切手に、江南の名の在ったことを思うと、梨英と江南との間に、全く異なった運命が流れて居はしないかとも疑われる。
網守子が容易に返事をしないのを見て、添子は江南の指図の通りに第二の矢を放った。
「其れに江南の発行している雑誌は、ここで資本を出せば、二割も三割も利益を配当する様に成るのです。」
網守子はまだ返事が無い。
添子「事に由ると四割も五割も、大層な利益では有りませんか。」
網守子は終に答えた。
「私の一存でお返事するなら、私はお断り致します。」
添「あれ先ア、貴女は大変な好機会を取逃がしますよ。名誉と利益との。」
網「イイエ、私は蛭田江南の様に、立派に成功している人を助けるより、世間には、未だ成功しない天才が有るだろうと思います。その様な人を補助する方が、---。」
添「成功して居ない人を補助するのは、お金を溝(どぶ)の中へ捨てる様な者ですよ。そう仰らずにーーーー。」
網「では私、相談する人が有りますから、其の人の意見を聞いた上で、お返事しましょう。」
相談する人とは、勿論谷川弁護士であると添子は思った。彼(あ)の様な人に相談せられては大変である。
「イエイエ是は秘密のお話しですから、誰にも相談して下さっては困ります。」
網「では私の一存でお断りします。」
添子は恨めしそうに、
「貴女はあれほど江南の詩を愛読成さったのに。」
網「詩と人とは違います。」
此の夜添子は江南へ秘密の通信を送った。其の文句は、
「到頭失敗しましたよ。私は必死に勉めましたけれど、最初から駄目だろうと思いました。是は貴方が悪いのです。私は少しも嫉妬の心などは無く、貴方へ出来るだけの機会を与えましたけれど、貴方が少しも彼女の心を引くことが出来なかったのですもの。私は詩は何うでも、其の人を愛しますのに、彼女は詩を愛して人を愛しません。彼女と私は是ほど気質が違っています。」
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