巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume70

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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      (七十) 三人共に幻境に入った

 全く阿一の失望は、聞きしに優って居る。けれど網守子は言った。
 「一人の批評家が失敗だと言っても、他の批評家に見せれば、又何と言うか分かりません。批評家の意見は、何事に就けて銘々に違って居るでは有りませんか。」
 此の言葉は、阿一に取って幾分の慰めと為った。小笛も其れと見て、

 「兄さん、是ほど親切に言って下さるのですから、兎も角も、網守子さんに読んで戴こうでは有りませんか。」
 阿一は
 「アノ様な大家が失敗と言い切った者を、誰に見せたとて仕方が無い。」
とは言う者の、網守子の顔に溢れる同情には、多少心を動かしたらしい。

 遂に小笛が本文を網守子に読み聞かせると言うことに成った。兄も妹も、実は本文を空で知って居る。今まで二人で、幾度び読み返し幾度び評議して、幾度び作り直したか知れない。今は全く脚本の全文が、自分達の血と為り肉と為り、自分達と引き分けること出来無いほどに同化して居る。

 その上に小笛の読み方は全く旨い。声の調子は低いけれど、作中の人物の情が、悉(ことごと)く言葉に現れる。
 聴いて居る中に網守子は、知らず知らず其の身が戯曲中の人物に化せられて、其の人物と共に喜び、共に悲しみ、共に興じる様が、天真爛漫な其の顔に現れた始めた。

 今まで妹のするがままに打ち任せて、其の身は少しも関係の無い様な態度を取って居た阿一は、網守子の顔に、自分の戯曲の中へ籠めてある気分や精神が、一々浮かび出る様に思い、やがて一幕を読み終わった時には、其の陰鬱な顔色も幾分か晴れて来て、

 「アア貴方は本当の芸術家として生まれて居ます。」
と言った。
 彼は今迄、自分の作品の真の値打ちが、素人に分かるものかと言う様な気位があって、自分が第一流の大家と信じる、蛭田江南の宣告には甚(ひど)く力を落としたけれど、其れだけ素人の非難や讃嘆を、眼中に置か無い積りで有った。けれど、今、網守子の熱心な態度は、彼に一種の尊敬をさえ起こさせた。

 彼は言った。
 「私が人形を使えば、又幾分か戯曲中の意味が、良く現れるかも知れません。」
 是より彼は、小笛の読み声に合わせて、人形を使い始めたが、鼠の巣の様な狭い室が、何時の間にか大世界と為った様に思われ、読む小笛、使う阿一、見聞く網守子も、全く戯曲の意味の中に、全身を巻き込まれ様な気持ちと為り、無我の幻境に入って了(しま)った様で有った。

 凡そ二時間ほどで、三幕が終わった、網守子は漸く幻境から醒めて来た。
 「此の戯曲を、第一流の批評家が全くの失敗だと評しましたか。」
 阿一「そうです。何処の興行人も一顧も与え無い。全く物笑いだと言いました。」

 網「其の批評家は誰です。」
 網守子は、確かに此の戯曲を傑作だと思った。然るに是を失敗だの物笑いだなどと宣告した批評家は、誰で有ろう。
 けれど阿一は妹と顔を見合わせたまま、何とも答え無い。

 網「誰が何と言おうとも、私は是ほど深い感動を与える芝居を、見たことが有りません。脚本として、専門家が何の様に評するかは知りませんけれど、幸い私は、芝居道に精通して居る批評家を、知って居ますので、今一度其の人の鑑定を請うて上げましょう。」
と言う網守子の心中には、捨部竹里の事を思って居るのである。

 竹里ならば誰にも劣ら無い批評家で、玄人(くろうと)社会に、少なからぬ勢力も、持って居る筈である。
 少しも遅疑せぬ網守子の態度に、阿一は大いに力を得たらしい。其の青かった顔に、幾分の血色を浮かべて、
 「尤も、今申した批評家も、此の脚本をば百円与えるから、俺に渡せと云いましたよ。」

 網「其れは不思議では有りませんか。全くの失敗だ、物笑いだと宣告して、其れで百円に買い取ると言うのは。」
 阿「ハイ、そう仰(おっしゃ)られれば、成るほど不思議にも思われますが、私には唯親切に、そう言って呉れるのだと思いました。」

 網「親切ならば、何も貴方が一心を凝らした此の脚本を、百円の代わりに、自分の方へ取るには及びますまい。そうして其の批評家は、此の脚本を何うすると言いました。」
 阿「自分が書き直して、全く自分の名で発表すると言いました。」
 人の傑作を自分の名で発表する。其れでは、其れでは、と考え
て網守子は、愕然として驚いた。

 「其れでは芸術界の盗賊です。其の様な批評家が幾等広い都にも、二人と有ろうとは思われません。して貴方は何と返事しましたか。」
 阿「未だ返事をして居ないのです。私は自分が辛苦して作り上げた戯曲が、幾等拙作でも、他人の名で世に出されることは忍びません。」

 網「其れは御尤(もっと)もです。では何故に明白に断りませんか。」
 阿一は又も小笛の顔を見て、
 「実は其の批評家が、妹の詩稿を買い取って呉れる恩人です。若し私が断れば、其れが為に妹への愛顧を、断たれるかと、其れが辛くて。」

 網「小笛さんの詩稿とても、私が別の批評家に見せて、売れ口の開ける様に相談してあげますから、其様なことを心配せずに、断る者なら、明らかに断るが好いでしょう。」
 兄も妹も一方ならず、力を得たらしい。

 阿一「そうです、妹の詩稿は、兄の口から褒めるのも如何(なん)ですけれど、全く傑作です。貴女がお世話下されば、他にも買って呉れる口が有ろうかと思われます。」
と言い、阿一は妹の詩稿帖を持ち出して、自らその中の一篇を朗吟したが、網守子は聴くと共に、又一種の怪しみに駆られた。


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