simanomusume77
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.3.18
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(七十七) 網守子の当惑
絵盗人、詩盗人、脚本盗人、一人の蛭田江南が果たして三重の盗人であろうか。
事情は何うもそうらしい。網守子は幾度考え直しても、そうとしか思わざるを得ない。
実に不思議である。此の様な盗人が、又と此の世に在るだろうか。余りの事に夢の様にも思われる。
何とかして、今一層、深く此の疑いを確かめる工夫は無いだろうか。
網守子は色々思案した。而(しか)も此の三重の盗みが、すべて網守子一人で分かって来る事と成ったのは、偶然とは云え是も不思議である。此の様な秘密を、自分一人の手に握って、さて何うすれば好いであろう。
誰かに相談して見ようか、イヤイヤ人に相談すべき事柄では無い。相談する程の証拠と言っても、持っては居ない。自分の心だけには分かって居る様に思っても、人に話して成るほどと思わせる事は出来ない。今の倫敦(ロンドン)で第一の成功家として知られている、蛭田江南を、盗棒(どろぼう)だと云った所で、誰が本当だと思って呉れよう。
とは言え、単に知らない顔で見過ごす訳には行かない。此の盗みに罹(かか)った被害者は、三人ともに自分の友である。盗まれた其の被害が、並大抵なことで無い為に、三人ともに相応に得るべき地位を失って居る。地位のみでは無い、名誉の報酬も総て失って居る。
其の三人は自分に取り、又と無い恋しい人、親しい人、憐れな人である。自分がこの様な秘密を知っていながら、救わなかったら誰が救う者か、義務としても、自分は何事をかしなければ成らない。
殆ど網守子は途方に暮れた。
若し被害者三人に向かって、此の後は蛭田江南へ、作品を売らない様にせよと忠告することは容易である。けれど、彼等は作品を売らなければ、生活が続かないのである。彼等の為に生活の道を開いて遣らなけれ成らない。其れも自分の財産では、必ずしも出来ない事では無い。けれど彼等が承知しない。と云って、今までのままに捨てて置いては、自分までが蛭田江南の盗みの事業を、助けることに当たる。知らない間は仕方が無いが、知った今では、何うしても知ら無い顔は出来ない。
寧(むし)ろ直接に蛭田江南に向かい、貴方の盗みは看破せられたと告げて遣らうか、そうすれば彼も恥て、盗みを止めるであろう、そうだ、明ら様に彼を矯(たし)なめるのが第一だ。とは云え、其れほどの証拠が、自分の手に在る訳でも無いので、彼から何の様な逆捻子(さかねじ)《逆襲》を食うかも知れない。
兎にも角くにも、路田梨英に逢い、切(せめ)ては余所ながらも此の疑いを糺(ただ)した上で、何とか思案を定める外は無い。
こう思い定めて、又も梨英の鼠の巣を訪ねたけれど、梨英は居無い。彼は何所へ行ったのか、宿の主人にも、何事をも言い置いて無い。全く雲を掴(つか)む様である。
次(七十八)へ
a:537 t:1 y:0