simanomusume79
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十九) 喜劇か悲劇か
全く網守子は、一場の喜劇を作りつつある積りである。
会の目的は、柳本阿一と妹小笛の天才を、世に紹介するに在るけれど、此の紹介が絵盗人、詩盗人、戯曲盗人とも言うべき彼の蛭田江南を、何の様に驚かせるであろう。網守子は其の時の江南の顔、江南の様子、江南の挙動を、きっと一種の喜劇であるに違い無いと思って居る。
勿論此の喜劇は、網守子より外へは、誰にも分からないのである。総ての来客は、自分が戯曲の試演を見つつあると同時に、直ちに自分等の傍に於いて、別に無言の喜劇が行われつつあると知る筈が無い。
試演の準備は一切網守子一人の考えで取運んだ。部屋を飾る額は、路田梨英が五年前に紫瑠璃島で書いた下絵三枚を、立派な額縁に入れたのである。網守子の積りでは、此の額に並べて、蛭田江南の絵を掛け度いと思ったけれど、残念な事には其れが手に入らなかった。
若しも並べて懸けたならば、見る人々が、江南の画は其の梨英の手に成った者と知るか、或いは梨英の下絵を借りて写したと思う筈である。たとえそうまで思わなくても、江南の外に梨英と言う画家が、江南に劣らぬ腕を持って居ると分かるであろう。
此の目的の為に網守子は、捨部竹里が早く江南の画を買い入れて呉れればと、楽しんで待って居たが、竹里から返事が有った。
「江南の絵は、展覧会に出す迄は、誰にも売らないとの事であるので、展覧会の終わるまで待って呉れと、江南自ら断った。」
との事である。其れが為に止むを得ず、只だ梨英の下絵のみを掲げる事と為った。
一方には又、柳本阿一と小笛とに向かい、愈々(いよいよ)彼の戯曲を、大勢の批評家や芝居道に関係の有る人や、其の他の紳士貴婦人の前で、試演することになったので、阿一が自ら人形を使い、小笛が本文を朗吟する様に伝えた。
兄と妹の喜びは一通りで無く、両人は既に充分に稽古が足りて居る上に、更に毎日毎夜練習し、少しでも多くの見せ場を現わす様にと、それぞれに非常に磨きをかけた。
網守子が最も苦心したのは、光線の配り方である。使う人形と、読む脚本には、光線が良く射さなければ成らない。けれど客席は幾分か暗くして、例の喜劇が、自分だけには見えるけれど、他の客には、気が付かれない様にするのが好い。そうして自分の席は、従妹藤子と共に、音楽台に在るのである。
ここからは、人形を見ることも出来、例の喜劇を人知れず注意することも出来る。とは云え是が真に喜劇であろうか。見物する網守子には喜劇でも、見物される江南には、大いなる悲劇ではないだろうか。
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