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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(八) 老夫人の語る秘密
二人の中、一人は此の家へ泊ると聞き、網守子の顔は嬉しそうに晴れ渡り、
「祖母(おばあ)さんは喜ぶに極まって居ますわ。」
と答えた。若し両人とも泊まると聞いたなら、網守子は猶更(なおさら)喜んだで有ろう。
直ぐに網守子は雇人に何か言い付ける為と覚しく、座を立った。後に竹里は警(いまし)める様に、
「君、初めて来た家に泊まるとは穏やかでは無いよ。」
梨「イヤ、僕は先方の好意を空しくしない方が好いと思う。其れに僕は成るだけ此の島を研究したい。」
竹「アア君は天才だ。常識には欠けて居る。」
日の暮れ無いうちに竹里は去り、梨英は自分の画(え)の道具や其の他の荷物を、隣島の宿屋から此の家へ取り寄せた。夜に入って、其の実不味(まず)い晩餐も、梨英は全く珍味の様に感じて食べた。其の後で網守子、
「マア是から祖母さんのお話をお聞きなさい。」
耄(ぼ)けて居眠ってばかり居る九十五歳の老夫人が何(ど)の様にして、何の様なことを話すのであろう。
頓(やが)て老夫人の部屋に入ると、下田夫婦も波太郎も、恭(うやうや)しそうに部屋の一端に並んで居る。網守子は其の上席に座し、梨英を独り反対の側に、老夫人へ近く座らせ、是から一同は讃美歌を歌い初めた。梨英は之に和しながらも、密かに網守子の声の豊かなのに驚いた。
次には網守子が、古い胡弓を持ち出した。すると下田の妻は糸車に身を寄せた。頓(やが)て胡弓の音が劉々(りゅうりゅう)と室に満ちた。曲は昔から此の島に伝わって居るので有ろう。梨英は初めて聞くのだけれど、網守子の調べは実に旨(うま)い。何にも知らぬ田舎娘と思って居たのに、大いに見上げる様に感ぜられた。
一曲、また一曲と、曲の選びは下田夫人が指図する。曲に和して糸車がブーンブーンと鳴り始めた。此の音に老夫人は首を上げた。そうして暫(しば)らく部屋中を見廻して居た。其の中に梨英の顔に目を留め、
「オオ、好く来(いら)しったねえ。」
と幽(かす)かに言い、続いて何か口の中に呟(つぶや)き始めた。梨英は耳を欹(そばだ)てた。
胡弓と糸車の音の中に、老夫人の声が僅(わず)かに聞き取られる。
「オオそうですとも、表向きは水先案内と言う営業、内実は海賊、皆そうですよ五ケ島の人々は。ナニ其れも先祖からの仕来りだから構いませんわ。けれど暗(やみ)の夜に、来る舟の目当てとする此の島の火を消して、無人の島へ燈火(ともしび)を附け、遥々東印度から帰って来る船を、地獄の瀬戸へ迷い込ませて破船させるとは甚(ひど)い。ねえ甚(ひど)いでしょう。彼の印度丸は、大変な金目の品ばかり積んで居ましたねえ。」
老夫人の言葉は戯言(ざれごと)とは思われ無い。確かに此の島の過ぎ去った秘密を語って居るらしい。
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