巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume83

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

since 2016.3.24

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

      (八十三) 丁度此時である

 網守子は語を続け、
 「処女作では有りますけれど、作者自身は道楽や慰みの為では無く、生涯を作劇に捧げる決心で、現代第一流の地位に登るまでは、何の様な苦心も辞さないと言う程に努力して居ります。今夜の試演が、成功するのと失敗するのとは、当人の前途に、余ほどの関係が有るように思われますので、何うぞ皆様も、軽々しく御覧成さらずに、充分真面目に御鑑賞下さる様に願います。

 最後に当人の身の上を、一言申し上げて置きます。当人は国家の為、南亜の戦争(ボーア戦争)に、兵士として従軍し、片足を失った廃兵であります。戯曲の筋は戦場では有りませんけれど、当人が死生の巷に出入し、千辛万苦を経る間に得た、其の感想が元と為って居りますので、人情劇ながらも。生きた自分の血を搾(しぼ)って作ったのと同様で有ります。

 愈々(いよいよ)朗読に取掛かります前に、皆様は御手許へ差し上げて有る荒筋書きを御覧なさって、作の大要を先ずご承知下さる様に願います。」
 此の網守子の口上が既に成功であった。網守子が廃兵と言った時は、孰(いず)れも阿一の姿に目を注いだが、阿一は人形を踊らせるテーブルの陰に、首を垂れて座して居たけれど、傍らに在る二本のY字杖で、成るほど廃兵であると知られ、一種の尊敬が一同の胸に満ちた。

 やがて口上が終わると、一同は荒筋書きを取り上げて黙読を始めたが、
 「本当に血を絞った作と思われます。」
とか
 「神聖な動機から出たのですねえ。」
とか言う様な言葉が、細語(ささやき)で交換せられた。

 直ぐに網守子は従妹藤子と共に音楽台に上り、藤子はバイオリン、網守子はピアノで、序楽として余り長く無いハンガリアの一曲を奏した。是が終わると共に、朗誦が始まるので、小笛嬢は、度胸を据えたとは云え、まだ自分の役目の重いのに、顔色を青くして待って居たが、心の底の孰(いず)れかに、非常に強い性質を持って生まれて居ると見え、静かな落ち着いた中音の声を以て、朗吟を始めて、震えもしない、澱淀(よど)みもしない、勿論玄人(くろうと)の朗誦とは聞こえ無いけれど、却って処女作と言われる戯曲に最も良く調和する様に、情が移った。

 小笛が読み始めようとする丁度此の時である。蛭田江南が、後れ走(ば)せながら入って来て、部屋の入口に立った。他の客は其れと気付か無いけれど、網守子は直ぐに見て取り、愈々戯曲以外の喜劇が始まるのだと思った。


次(八十四)へ

a:473 t:2 y:0
 

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花