simanomusume83
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(八十三) 丁度此時である
網守子は語を続け、
「処女作では有りますけれど、作者自身は道楽や慰みの為では無く、生涯を作劇に捧げる決心で、現代第一流の地位に登るまでは、何の様な苦心も辞さないと言う程に努力して居ります。今夜の試演が、成功するのと失敗するのとは、当人の前途に、余ほどの関係が有るように思われますので、何うぞ皆様も、軽々しく御覧成さらずに、充分真面目に御鑑賞下さる様に願います。
最後に当人の身の上を、一言申し上げて置きます。当人は国家の為、南亜の戦争(ボーア戦争)に、兵士として従軍し、片足を失った廃兵であります。戯曲の筋は戦場では有りませんけれど、当人が死生の巷に出入し、千辛万苦を経る間に得た、其の感想が元と為って居りますので、人情劇ながらも。生きた自分の血を搾(しぼ)って作ったのと同様で有ります。
愈々(いよいよ)朗読に取掛かります前に、皆様は御手許へ差し上げて有る荒筋書きを御覧なさって、作の大要を先ずご承知下さる様に願います。」
此の網守子の口上が既に成功であった。網守子が廃兵と言った時は、孰(いず)れも阿一の姿に目を注いだが、阿一は人形を踊らせるテーブルの陰に、首を垂れて座して居たけれど、傍らに在る二本のY字杖で、成るほど廃兵であると知られ、一種の尊敬が一同の胸に満ちた。
やがて口上が終わると、一同は荒筋書きを取り上げて黙読を始めたが、
「本当に血を絞った作と思われます。」
とか
「神聖な動機から出たのですねえ。」
とか言う様な言葉が、細語(ささやき)で交換せられた。
直ぐに網守子は従妹藤子と共に音楽台に上り、藤子はバイオリン、網守子はピアノで、序楽として余り長く無いハンガリアの一曲を奏した。是が終わると共に、朗誦が始まるので、小笛嬢は、度胸を据えたとは云え、まだ自分の役目の重いのに、顔色を青くして待って居たが、心の底の孰(いず)れかに、非常に強い性質を持って生まれて居ると見え、静かな落ち着いた中音の声を以て、朗吟を始めて、震えもしない、澱淀(よど)みもしない、勿論玄人(くろうと)の朗誦とは聞こえ無いけれど、却って処女作と言われる戯曲に最も良く調和する様に、情が移った。
小笛が読み始めようとする丁度此の時である。蛭田江南が、後れ走(ば)せながら入って来て、部屋の入口に立った。他の客は其れと気付か無いけれど、網守子は直ぐに見て取り、愈々戯曲以外の喜劇が始まるのだと思った。
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