simanomusume86
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(八十六) 単に偶然の損失
実に江南の顔の耐力には、驚かざるを得ない。赤く白く又青く、様々に変化して居たが、其の中に段々と鎮まって来た。多分彼は必死の思いで顔の色を調(ととの)えたで有ろう。尤もこの様な場合は、人知れず顔色を整えるだけの度胸が無ければ、現在の彼の生活は、決して支えることが出来ないであろう。
今迄に幾度と無く、人に様々の弱点を看破されたに違い無い。
怠らず彼の顔に注意した網守子も、今は彼の顔が平気に帰ったのに、聊(いささ)か恐ろしいほどに感じた。彼の顔を他の客と見較(くら)べても、別に怪しまれる所が無いほどと為った。
それに此の戯曲が、最初の幕は人を心配させ、第二の幕は、人を笑わせ、第三の幕は人に大いなる安心と、大いなる愉快とを感ぜしむる様な、筋である。喜びの中に悲しみが有り、悲しみの後に又喜びが有る。即ち人情劇とは言う者の、高尚な悲喜劇である。
此の点から言うと、彼れの顔色は最初の幕の心配に、最も似合しく見えて居ると言っても好い。
けれど彼れは心の中で様々に考えた。抑々(そもそ)も、柳本阿一と小笛とが、此の網守子に此の様に大事にせられて居るのは何の為あろう。何の目的を以て網守子は阿一の戯曲の為めに、此の様な試演会を催したのであろう。
真逆(まさか)に、彼れは網守子が自分を試す為と言う、陰密の目的を隠して居ようとは思わ無い。良く良く考えて見ると、過ぎる頃、添子の話に、網守子が新聞紙に広告をして、女詩人を募ったとの事であった。
さては其の募りに応じて、網守子に雇い入れられたのが小笛であるのだ。そうすると、小笛と網守子との関係は、単に雇い主と雇人と言うに過ぎない。そうだ、雇主と雇人では有るけれど、年頃の似寄った女同士である為、其の間に幾分の同情が通い、小笛から網守子へ、自分の兄の戯曲の事を訴えたので有ろう。それを網守子が気の毒な事に思い、世の中へ紹介して遣る為に、今夜の此の試演を催した訳であろう。
是だけの事とすれば、何も恐れることは無い。我が物として安く買い取る積りで有った戯曲が、自分の手から逸することに為ったのは、残念では有るけれど、別に自分に取って、死活問題と言う程でも無い。単に偶然の損失なんだ。
素より彼は様々の危うきを渡って居るだけ、様々の失望や様々の驚きに慣れて居る。今夜の驚きは、その中で最も険悪な性質である。けれど終に彼は多寡(たか)を括(くく)り、早くも善後策を考え得たと見え、やがて、第一幕の終わった時に、誰よりも先に喝采したのは、彼であった。
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