巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume96

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

since 2016.4.6

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

      (九十六) 深山にでも入った様に

 今まで江南は、唯網守子と婚約が出来れば好い。必ずしも妻にするには及ばないと思って居たが、今は妻にする必要を感じ、
 「添子を振り捨てても構わない。」
などと思って居る。

 其れは無理も無い。網守子を妻にして、其の口を塞がなければ、何時網守子の為に、自分の名誉が崩されて了(しま)うかも知れない。けれど実を言うと、網守子よりも添子の方が危険では無いだろうか。若し添子を振り捨てては、其れこそ何の様な寇(あだ)をせられるかも知れぬ。

 又添子自らも、江南に寇をする数々の手段を持って居るから、江南が、到底自分を振り捨てることは出来ないものと、多寡を括(くく)り、彼が網守子に縁談を申し込むと言っても、どうにかして止めようとはしないのである。

 やがて江南は、国民美術院には着いた。ここには、田舎出の見物客や、古美術品を模写する学生などが入り込んで居るけれど、社交界の人と言っては、誰も来ない。全く公の場所で有りながら、密話に適当な所である。

 彼は中に入って其処此処と見廻って居たが、間も無く網守子の姿を認めた。 網守子自らも画学生である。手に一冊の帖面を持ち、画(絵)でも彫刻品でも、其の他の何品でも、自分の心に留まるのを書き留め、感想などを記して居る。

 彼女に取っては、是が何よりの楽しみで、今までも幾度ここに来たか知れない。
 頓(やが)て網守子が、他に人の気の無い、静かな一室へ歩み入った時、のっそりと蛭田江南が現れ、恭(うやうや)しそうに帽子を取って、網守子の前に立った。網守子は何だか薄気味悪く感じた。

 是は年頃の女の常で有ろう。如何に大胆で、心に蟠(わだかま)りが無いにしても、大きな建物の静かな一室は、踏む足さえも、四方の壁に異様に響いて、深山にでも入った様な気がせられるのに、出し抜けに一紳士が立ち現れるとは、追剥(おいはぎ)の現れるのとは違うけれど、何と無く不安の念に襲われる。

 況(ま)して網守子は、昨夜自分が、何れほど此の紳士を窘(いじめ)たかと言うことを知って居る。真逆(まさか)に此の紳士が、自分が窘(いじめ)られたとは、気が附かないだろうけれど、其れでも網守子の心は、毎(いつ)もほど、平気で居ることが出来ない。只だ勉めて平気を粧(装)うのである。

 直ちに江南は口を開いた。
 「今朝貴女が、ここへお出でと云う事を、初鳥夫人に聞きましたので、此の通りお後を追って参りました。」
 網守子は、初めて江南の顔が異様に青褪め、眼さえやや窪(くぼ)んで見えるのを知った。これらの事が、物凄さを添える様にも感ぜられるけれど、無遠慮に、

 「何で私の後を追ってお出で成(なさ)れます。」
謂(い)わば熱心な心へ、冷水を浴びせ掛ける様なものである。
 流石の江南も、直ぐに目的の事を述べ立てる訳には行かない。柄にも無く少しの間澱(よど)んだ。


次(九十七)へ

a:450 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花