巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune103

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.4

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百三

 是から男爵と小浪嬢との間に、如何なる椿事が起ころうとするのだろう。
 それは暫(しばら)く後に譲り、茲(ここ)に皮林が嬢に逢った日から一月ほど以前、彼が英国を立ち去った頃の事である。
 倫敦(ロンドン)ベルセー街の、非常に静かな酒店に入り、一瓶(びん)の焼酎を抜き、チビリチビリと飲みながら、人待ち顔に待って居る一人があった。これこそ皮林の秘密を手の裡(うち)に握り、今迄彼を苦しめていた、「田舎屋」の主人古松である。

 何人を待っているのかは知らないが、眉間に青筋を浮べ、腹立たしそうな相好を現せているのは、何か気に食わない事が有る為に違いない。彼は幾度か時計を眺め、
 「もう帰って来る筈だが。」
と呟(つぶや)くうち、終に夜の八時頃となり、ノソリと此処に入って来て、古松の前に座を占める一人が有った。これは古松の手下であることは、其の様子で察せられる。

 古松は突然に、
 「大層遅かったなア。己(おれ)は待ちくたびれて居た。」
 手下「是でも急いで帰ったのだよ。」
 古「分かったか。」
 手下は力の抜けた声で、
 「アア分かったが了(いけ)ない。彼奴(きゃつ)は愈々(いよいよ)仏国(フランス)へ渡ったよ。私はドブアまで行って探って見たが、彼所(あそこ)で彼奴が、船に乗る所を見た者が三人ある。」

 古松は絶望の嘆息を発し、
 「それはいけない、彼奴(きゃつ)め、己(おれ)に見張られるのが苦しいから、必死になって己の目を掠(かす)め、大陸へ行きやがった。何でも常磐男爵の後を追い、何とかして男爵を殺す積りに違いない。」
 手下「だって男爵も既に一度は、彼の毒薬を呑む間際まで行ったから、もう用心してそう容易には、彼の毒薬には掛かからないだろう。」

 古「そうはいかない、彼奴(きゃつ)め、細かな仕事に掛けては、恐ろしいほど智慧の廻る質(たち)だから、何の様な計略を廻らすかも知れない。」
 手「それではもう最後の手段を用い、彼を其の筋へ訴えれば。」
 古「馬鹿を云うな。彼の居所が此方(こちら)に分かって居てこそ、訴えれば直ぐ捕まるけれど、彼の居所を見失った今となっては、訴えても容易に捕まるものではない。彼奴も充分用心して居るから、うまく姿を隠すに違いない。」

 手下も共に失望した様に嘆息して、
 「アア不味(まず)くなって行く。全体云えば、男爵が旅立ちする時に、此方(こちら)から出したアノ無名の手紙が、うまく行かなければならなかったのだが。」
 古「爾(そう)よ、必ず男爵がアノ手紙に動かされ、ヤルボロー塔の事や、其の他の秘密を聞く為に、己を尋ねて来る筈なのに来なかった。」

 手「アノ手紙が、男爵に着かなかったのかも知れない。」
 古「イヤ着いた事は着いた。己は男爵が馬車に乗って出発する時の顔を見たが、夫(それ)は夫は気の毒な様に欝(ふさ)いで居た。何でも前夜にアノ手紙を見て、胸に様々の疑いが起こり出して、自分でも制し兼ねて居たのだ。惜しい事をしたよ。もう少し、アノ手紙を強く書いて置けば好かった。余り書き過ぎては、却(かえ)って害になると思い、少し筆を控えたのが此方の落ち度サ。」

 手「今となっては、もう皮林の後を追い、此方も男爵の居る所へ行き、再び彼奴を捕えて、其の運動を妨げる外はない。今男爵が死んだ日には、」
 古「さうサ、今男爵に死なれては、元も子も失うけれど、それだからと云って、俺が男爵の近辺へ行くのは実に危険だ。」
 手「何で」
 古「まだアノ探偵横山長作と云う奴が、時々男爵の機嫌を伺いに行くからよ。」

 手「ナニ彼奴(きゃつ)は小部石(コブストン)大佐の病気を見舞いに行くのだよ。」
 古「何方(どちら)にしても同じ事よ、己は彼奴に写真まで持たれて居るもの、若し彼奴に己の顔を見られて見ろ、皮林より己が先に捕縛せられる。」
 手「それは爾(そう)だ。」

 古「爾とも、全体彼奴が常磐家へ現れて来さえしなければ、己は初めの目的通り、直々に男爵に逢い、男爵が旅行に出る前に、一切の仕事を済ませて仕舞ったのだ。所が肝腎な所に、彼奴が現れたものだから、己は「田舎屋」の酒店に居るのさえ危険になり、店を雇い人に任せた儘(まま)で、アノ土地を立ち去る事になった。皮林は恐れるに足りないが、横山ばかりは恐れない訳には行かない。この様にヘマを踏むのも、総て彼奴のためだ。」

 手「と云って今更仕方が無い。此の後はどうする、もう思い切ってお仕舞いにするか。」
 古「馬鹿を言え、この様な大仕事が、そう容易に思い切られるものか。」
 手「じゃ何する。」
 古「爾(そう)さなア」
と云い、古松は暫(しば)らく考え込むばかりであったが、ややあって、何か思案が浮んだ様に手下の耳に口を寄せ、何やら呟(つぶや)くと、手下は驚き、

 手「エ、園枝を」
 古「爾(そう)サ、其の一方だよ。」
 手「だって園枝は、今牢の中に居るじゃないか。」
 古「居ても構うものか。今時の牢番は、賄賂次第で如何にでもなる。」

 手「併し随分危険な仕事だな。」
 古「危険は危険でも仕方が無い。今から直ぐ其の運動を始めれば、皮林が彼地(あっち)で運動し、男爵を殺すのよりも、此方の方が先になる。爾サ一月か精々(せいぜい)二月とは経たないうちに。」
と云い、茲(ここ)に相談は纏(まとま)った様子であったが、其の相談が、どの様な事であるのかは、知る方法も無かった。


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