巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune108

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.9

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百八

 古松は忽ち目に角立て、
 「何だと、年金五千ポンドの約束が結ばれないとな。」
 園枝は殆ど泣き声にて、
 「どうしてその様な約束が結ばれよう。それでは丁度、一年に五千ポンドづつ良人の財(たから)を掠(かす)め取ると云う意図で、良人(おっと)の家に入る様なもの、前以て泥棒を働くと云う目的を定め、其の目的を果たす為に、人の妻になると同じ事。他人の家へ忍び入って、盗みをする通例の盗賊より遥かに卑劣な振る舞いで、爾(そう)して我が良人を欺くのだから、盗賊よりも奸淫よりも罪が重い。

 若し私に自分の財産と云うものが有れば、残らずお前に贈ると言う約束でもなんでも結ぶけれど、良人の金とあっては、五千ポンドは差置いて、一文の約束もする事は出来ないよ。その様な汚らわしい心を以って牢を出るより、心を汚さず牢の中で老い死んだ方が、私は幾等増しか知れない。」
と日頃の一国者である心から、凝り固まって一寸さえも動く景色無し。

 古「馬鹿な事を云う女だ。男爵の妻と言う元の身分に戻れば男爵の財産は和女(そなた)の財産。何も良人の金を盗むのでは無く、自分の金を遣うだけサ。己(おれ)は和女が一年に五千や六千の金には困らない様な身分に成るのを見込んだ上で、斯(こ)う云うのだ。若しその様な身分に成らず、男爵から金の自由を任されない様ならば、己は何もそれでも良人の金を盗んで送れとは云いはしない。

 和女(そなた)が男爵の信用を失えば、己(おれ)の幸福も消える訳だから、なるたけ男爵の機嫌を損ぜず、和女の地位を失わない様、其の上和女の心一つで容易に取り計らえる様に、四方八方に気兼ねして、五千ポンドまで切り詰めたのだ。和女が良人から任されて自分の物も同様な財産の中から、父に貢(みつぐ)のに不思議はない。誰に遠慮することが有る。」

 園「お前の考えはそうかも知れないが、私の心はそうではない。自分の胸に是から良人の金を自由にし、其の金の中から良人の知らない秘密の支払いをすると思えば、自分で自分が恥かしく、どう有っても人の妻になる事は出来ない。若しこの様な約束が何も無く、自分の心さえ清ければ、次第に由っては、元の身分に返えるかも知れないが、金を目当てにする心が有っては、気が咎めてどうして人の妻になられよう。

 世間には随分、妻とならない先から夫の財産を数え、其の財産に目を付けて婚礼する婦人も有る様に聞くけれど、私の心では、夫それは財産の為に身体を売るようなもの、婚礼では無く商売だ。私は婚礼を商売にする様な当世風の考えは持って生まれていない。其の考えがない為、苦労をするのは仕方がない。生まれ付いての不幸と断念(あきら)める丈の事だ。

 お前の約束は、私の心に持って生まれていない約束だから、何うしても結ぶ事は出来ない。園枝は金と云う欲のない片輪者だと思ってお呉れ。お前が何と説いても、是ばかりは無駄だから。」
 一点の残念も残らないほどに言い尽くと、古松は案外の思いがして、
 「まだその様な堅意地を言い張るか、それでは此の相談は成立たない。牢の中で可愛い児を生み育てて見るが好い。可哀相に何の罪も無いお腹の赤児(やや)が、生まれない先から牢の中へ落とされる。先(ま)ずア、大抵は此の湿気の中で死んで仕舞うだろうが、たとえ育った所で、後々まで牢屋の生まれと嘲(ののし)られ、人並みの交際は出来ず、其の度に母の意地悪を恨むだらう。

 僅(わず)か五千や其処等(そこいら)の金で、己(おれ)を人並みの人間にする事が出来たものを、ただ自分の堅意地を通す為に、児の生涯を何とも思わず、到頭世に出られない人同様にして仕舞ったと、そうサ、此の児の後々はさぞ仕合せだろう。さぞ母に孝行しよう。アア慈悲深い母だ。感心した。」

 独り言の様に放つ言葉は、一々園枝の急所を刺し、園枝は宛(あたか)も腸を裂く様な声で、ただ一語、
 「エエ、お前は」
と打ち叫んだ。
 古「エエ、お前は、それからどうしたと云うのだ。」

 園「お前は本当に鬼か蛇か。そう何もかも知って居て、此の不幸な母を救う、露ほどの慈悲の心もなく、」
 古「そうサ、何千万の財産から、僅(わず)か五千ポンドの年金を惜しみ、大事な児を生涯世に出られない人に落とす、意地悪な母とは丁度釣合った好い相手だ。」

 園「その様な事を云わずに、コレ、お前の外に私の身の清い事を知っている人は居ない。心に恥じない約束なら、どのような事でもするから、何(ど)うぞ、コレ、何うぞ救ってお呉れ。」
と古松の膝に縋(すが)ると、古松は少しも動ぜず、

 古「心に恥じないからと云って、今の約束より外に、己(おれ)へ何の様な報酬が出来る。」
 園「私は今牢を出れば、直ぐに音楽の職業を求め、充分に精を出して、其の儲(もう)けから児を育てる費用を引き、後は残らずお前に送る。ハイ、どれほど苦しい思いをしても、生涯お前に不自由は掛けない。是だけの約束で救ってお呉れ。」

 古「了(いけ)ないよ、その様な事を云わずに、今云った約束を結べ、和女(そなた)も音楽などと云わずに、男爵の妻で世を送るのが何よりも安楽だぜ。」
 園「其の約束ばかりは」
 古「どう有っても出来ないと云うか。」
 園「ハイ、どう有っても出来ません。」

 古「和女が牢から出れば、直ぐに男爵が馬車を以って和女を迎いに来、今まで和女を疑った過ちを詫び、其の上に常磐家の財産一切を和女に任せる様に、己が何もかも運んで遣るが、夫(それ)でも否か。」
 園「何と云っても出来ません。」

 古松は更に、否応言わさない程の、大切な秘密でも握って有るのか、又一層落ち着いて、
 「此の約束さえすれば、和女の実の父と母の名も知らせて遣るぜ。」
 園「エ、エ、エ、私の実の父、実の母」
 古「そうサ、和女は実の父の手許で、蝶よ花よと育てられて居たのを、三歳の時に己(おれ)が盗んで来て育てたのだ。実の父母の事を聞きたくはないか。生みの父、母より、年五千ポンドの金が大事か。」



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