巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune11

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.4

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                十一

 この様な不義非道の振る舞いがあるとするれば、常磐男爵が立腹して勘当しようと決心したのも無理は無い。実に貴族には有るまじき、否、人間に有るまじき残忍酷薄の所業であって、人非人とも称すべき者だからだ。

 男爵は更にその決心を繰り返して、
 「是だけの所業があって、まだ私の甥で居られると思うなら、この上も無い間違いです。貴方の父であった私の弟は、陸軍士官として、インドの戦争に名誉ある討ち死にを遂げ、貴方の母はそれを苦に病み、間も無く私の屋敷で病死しましたが、二人共私へ頼むのは唯貴方の後々の事ばかりです。

 私はそれに免じて貴方を子の様に思い、今迄許される丈は許しましたが、最早堪忍が尽きました。今日以後は再びこの家へ足踏みをしないのは勿論、私の目の前へその顔を出さない様にして頂きましょう。エ、分りましたか。これからは何の縁も無く、覇絆(きづな)も無い、全くの他人ですよ。」
と重々しく言い渡され、流石悪人の永谷も、これより後の乞食同様な境遇が目の前に浮んで来て、殆ど憤懣遣る方なかった。

 「その様に仰っても、真実私をその様な目に合せるお積りでーーー。」
 男爵は頑として、
 「イヤ、面会は是で終りました。もう他人の貴方に言う事も聞く事も有りません。」
 永「夫れは余り邪険と云う者です。」
 男爵は耳さえも傾けず、知らない顔で、呼び鈴を押し鳴らし、入って来た下僕(しもべ)に向い、

 「戸を開けろ、そしてこの方を門の外までお送り申せ。」
 アア何ぞその仕向けの冷淡であることか。ここまで遇(あしら)われては、如何に悪人であっても、踏み止まる足場は無い。顔に恐ろしいほど立腹の色を浮べたけれど、如何にも仕様が無く、僅かにその腹の中で、

 「ここまで非道(ひど)い目に合せて、今に見ろ、きっと後悔する程にこの仇を復(かえ)し、この身代を俺の物にして見せる。」
と呟き呟き、泥棒狗(いぬ)の追い立てられる様に送られて立ち去ったのは、自業自得の報いとも云うべきか。

 後に男爵はホッと息し、
 「アア、中途で俺の決心が弛みもせず、言う丈の事を言い聞かせて仕舞ったのはまず好かった。」
と安心らしく独り言は吐いたものの、五十に近づき、身をもって子の様に育てた甥を捨て、何の快い筈があるだろう。

 思えば自分の後々は、後に譲るべき人も無く、何も目的(めあて)も無く、何を楽しみにしたらよいだろう。真に張り合いない心の淋しさに耐えられない。この様な時にこそ、生涯のの道連れである妻が有ったらと、空しく思ってみたが、今に及んでその甲斐は無い。

 再び呼び鈴を押し鳴らし。更に又、
 「マデイラ酒の口を抜いて持って来い。」
と命じ、頓(やが)て独酌で少しばかりのビスケットを肴とし、幾杯かを傾け終った頃、馬車の用意が出来たことを通じて来たので、唯一人の下僕を従えてここを出た。

 勿論鉄道の敷設まだ普(あまね)くは行き渡らない頃なので、是から駅駅で馬を次ぎ、夜の十時に至るまで、只管(ひたすら)に急がせたけれど、折りしも冬の半ばで、夜嵐は月を掠(かす)めて吹き渡り、馬車の中に座しているとは言え、其の寒さは耐え難かったので、漸く夜徹(よどお)し旅行の決心を翻(ひるが)えし、とある一市区の宿屋へと投じたが、

 固よりロンドンから常磐荘までの街道で、男爵の名を知ら無い宿は有る筈なく、直ちに二階の最上の室に案内せられ、夜深(よふけ)とは云え、充分の食事まで捧げられたが、物思う身には、食欲さえ常の様では無く、僅かに箸を着(つ)けたままで引き取らせ、その後で燃える暖炉(ストーブ)の前に椅子を移し、茫然として考えに沈み込み、給仕が来て、
 「お寝間に灯(あかり)を点(つ)けました。」
と注進したが聞き流し、殆ど何事も心に入らないままに、夜の更け行くのに任せて居た。

 やがて十二時にも近いだろうと思われる頃に、何処からか、微(かす)かにたなびき来る歌の声が有った。思い沈む男爵の耳には、空谷の足音と云うよりも更に爽やかに聞こえて、身はふらりとして軽く上がり、魂魄も浮ぶような心地がするので、各国の音楽を飽くほど聞いた男爵も、我知らず耳を澄ますと、声は確かに年まだ若い女の声で、多分は乞食の類で、寒さに震えて絶え絶えに、我が窓の下の辺で唱(うた)っているようだった。

 歌はこの辺で昔から子供が唱(うた)う「捨小舟」の曲で、聞く程の物ではないが、唯その声の優しくして、非常に妙なるは、殆ど人間の咽(のど)から出るとは思われず、男爵は知らず知らず深く心を動かして、

 「アア、何処の少女か、可哀相に、もう通例の乞食なら、貰い溜めて、安宿に寝て居る刻限なのに、それにしてもアノ声は、少し音楽の教師に就けば、イタリアの大音楽会に上せても、楽壇の女王と崇められる程の声だ。真に可哀相と云うのはこの様な女を云うのだナア。」
と呟きながら浮き浮きと立って窓際に寄って行った。


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