巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune111

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.12

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百十一

 男爵はこの様に心淋しさに堪えられず、友欲しく思うようになっていた時に、この瑞西(スイス)の山中に来た。前から親しくしていた小浪嬢が、自分より先に此の土地に逗留しているのに逢ったので、是で我が憂さも忘れることが出来るかと、大いに喜ぶ事は喜んだが、心の底に深く刻み込まれた創(きず)の傷(いた)みは、そう簡単に消え尽す筈は無い。

 半年程も鬱(ふさ)ぎに鬱いで、陰気な性となっていたので、以前の様に口も軽くは開く事が出来ず、万事唯湿り勝ちに沈み込んでいたが、其の中に、小浪嬢は日に何度も尋ねて来て、他人の身として、及ぶだけの親切を尽くすばかりでなく、身動きも出来ない彼の小部石(コブストン)大佐の病室にも入り、看護婦も及ばない程に労わりなどし、殆ど病人の介抱を、何よりの楽しみとして居るのではないかと疑われる程だったので、男爵も追々に感心し、

 彼の嬢は唯交際に長けているだけかと思っていたのに、世の婦人には珍しいくらい、慈悲の心にも富んで居たので、今迄は慈悲を現すべき境遇に出会わなかった為、其の心も人に知られなかったものに違いないと思ったが、独り怪しいのは、小部石大佐が非常に小浪嬢を忌み嫌う様な様子がある一事である。

 大佐は口もきかず手足をも動かすことが出来なかったが、嬢の来るのを見るや、目に非常に不興気な色を現し、嬢の去るまで其の心は解けないようだったので、或時男爵は大佐に向い、
 「老友、お前は酷く小浪嬢を嫌うのか。」
と問うと、大佐は眼を動かして、「然り」の意を示した。

 更に、
 「それでは成る丈お前の傍へは近づけない様にしようか。」
と問うと、
 「最も然り」
と云わないばかりに、前よりも更に速やかに眼を動かした。

 因(もと)より眼の動き方だけで、細かい心は示すことは出来なかったが、
 「否」
と云い、
 「然り」
と云うだけの区別は充分に良く分り、特に男爵は、長く大佐の枕元に付いて居て、其の眼の色を読むのに慣れていた上、大佐も厚い介抱に幾分か力を得、目使いだけでも、非常に敏速になったことが明らかになったので、医師も此の調子なら、薬の力よりも月日の功で、自然に良い方に回復して行くだろうと云い、更に此後三、五年の保養で、若し不意に心を激動する様な事にでも出会ったならば、身体器官の動きが、急に回復する見込みは益々大きくなるだろうととまで云った。

 この様な次第なので、男爵は大佐の意を知り、其の後は、成る丈
嬢を大佐の部屋へは、入れない事としたけれど、だからと言って嬢が尋ねて来るのを、拒む訳には行かなかった。況(ま)して旅は道連れと言って、良く語り、良く人を慰める道連れなので、男爵は嬢の為、大いに心の淋しさを忘れる思いがし、日によっては、嬢と一時間以上も、種々の話に時を移す事すらあった。

 かつて嬢が我が家に客だった頃は、大勢の客の中で、嬢一人に目を注ぐ事は無かったが、この様に差し向かい同様の場合と為り、外に心惹かれる人も無く、唯嬢だけを見ると、其の器量と其の心に、今迄現われなかった美しい所が、追々現われて来る様な気がして、一日は一日より親しみを増し、何時の間にか、これほど万端の揃った令嬢が、今迄我が心に止まらなかったのは何故だろうと、自ら怪しむ迄に至ったのは真に是は何故だろう。
 誠に苦々しい成り行きと云わなければならない。

 しかしながら男爵は既に、女には容易に心を許し難いのを、知り過ぎるほど知り抜いた後なので、更に自らを誡めて、我が心が動けば動く丈益々慎み、一度は嬢に向って、殆ど余所余所しい迄に、厳かに身を持つ事となったが、又思えば、嬢こそは英国軍人の家族にして、其の素性に一点の疑いも無い。
 清き友人として打解けて交わるのに、何の不都合が有るだろうか。自ら用心する丈では、まだ悟りが足りないのだ。

 我が心に痴情の心配さえ無ければ、誰と交わるのも同じ事だと、この様に思い返したのが迷いの路で、是からは唯嬢の来るのを拒まないばかりか、時々自分から嬢の宿を尋ねて行く事も有り、或は相携いて、夜の景色に散歩するなど、知らず知らずの間、自ら危うきを悟る事が出来ない程の、危うい所迄踏み込み、嬢の傍を離れては、何やら物足りない心地がして、遂には食後食後に嬢の手から、一椀の珈琲(コーヒー)を受け取って飲むのが、他人の手から受け取って飲むより、遥かに味が好いと思うに至った。

 そうは云っても、男爵の様に、一旦全身の愛情を一人の女に注ぎ尽した人は、再び始めの様に、前後の思慮も無く、熱心な愛情を起し得るものでは無い。愛の中に、まだ冷ややかな分別がある。
 或時男爵は例(いつ)もの様に、嬢の宿に行こうとして、忽ち自ら怪しみ、今迄暇さえ有れば、大佐の枕許にばかり詰て居た我が身が、何が為に大佐の病室を離れ、この様に小浪嬢の許に足を向けるのだろうと心に問うた。

 是れは愛の為か、愛の為では無いか。男爵は心の中に、否、断じて愛の為では無いと答えたが、だからと云って、其の足を踏み返えそうともしなかった。若しこの様に親密に交わる為、両人の間に愛情の起こる事が有れば、先も独身同様であり、夫婦と為って其の愛に実を結ばせる丈の事だと、非常に軽く解釈して、嬢の宿に歩み入った。

 既にこの様な事を思うこと自体が、愛情の境に入りたるものにして、唯園枝に対した愛情ほど、濃(こま)やかではないとは云え、茲(ここ)まで熟して来て、実を結ばずに止む例(ため)しが、何処にあっただろうか。


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