巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune113

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.14

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百十三  

 男爵は我が顔が、何(ど)の様に変わったのかと、鏡に対して照らして見ると、我が顔は依然として我が顔で、見違えると云う程ではなかったが、眉目の辺りに非常に、勢いの衰えた所があった。又頬の肉などは余ほど落ちていた。

 是だけならば深く驚くにも足りないが、唯男爵が驚いたのは、顔の色合いである。幾月の旅に焦げて、日頃よりは黒くなって居る筈なのに、黒い中に薄気味の悪いほど、青白い所がある。何処ともなく死に顔の相を現していた。給仕の怪しみも尤(もっと)も、大佐の嘆くのも道理である。

 アア我が身は五十歳にして、早や既に余命少ない人と為り、死際に近付いたのか。
 唯時々咽喉(のど)に火の燃える様な乾きを覚え、食欲が自然に減ずる丈の事なので、低度の熱病とばかり思って居たが、之が命取りの病だったかと、実に驚くことと言ったら並大抵ではなかった。

 それにしても朝な夕な、我が顔に眼を注ぎ、我が少しの顔色をも読み取って、只管我が心に副(そ)おうとする小浪嬢が、我が顔が、これ程迄衰えたのに、気付かなかったのは何故だろう。気付いても、我が心配を察し、故(わざ)と言い出さずに控えて居るのだろうか。

 何はともあれ、早速医師の診察を乞おうと、先ず宿の者に問い合わすと、丁度好都合な事に、予(か)ねて男爵と一、二度顔を合わした事がある、英国の有名な医家で、西泉博士と云う人が、此の頃程遠くない隣村の、或宿屋に来て逗留しているとの事なので、男爵は直ちに其の西和泉博士の宿に行き、博士に逢って咽喉の乾きから、食欲の減った事、顔色が非常に悪くなった事等、我が容態を詳しく述べ、終わりに及んで、

 「実に自分では、それ程までの病気とも思いませんでしたが、傍に居る者どもが、心配致しますので、念の為の診察を乞うのです。」
と云うと、博士は非常に満足の様子で、
 「イヤ、早くお気が附いて幸いでした。今の中なら未だ手遅れと言う訳でも有りません。」
と答えた。

 男「随分危険な病症でしょうか。」
 医「イヤ危険ーーと云う程でもーー未だ有りませんが、何様異様な兆候ですよ。私共が研究の好い材料として、最も力を入れる種類です。」
と博士は述べて、更に男爵に向って、事細かに問い始め、

 「日々の食事は勿論、給仕する者は何者であるか。茶、酒のような飲み物は、如何なる人が持って来るのか、共に卓子(テーブル)に列なって食事する人は、皆気心の許される人であるかなど、容態には少しも関係の無い事迄、根掘り問うので、男爵は殆ど五月蝿(うるさ)いとまでに思ったが、唯此の医学博士の平生の名誉に免じ、問うが儘(まま)に答えた。医学博士は最後に、

 「今日はまだ、私の意見を充分に述べ兼ねる所も有りますが、兎に角、五日の後、再びお出でなさい。夫(それ)までに服用すべき薬の処方書きを上げますから。」
と云い、一枚の処方箋を授けられたので、男爵は礼を述べて帰ったが、思えば我が病は、医師の口から有りのままに言い難いほど、重い所があるのに相違無い。

 併し今の中ならば、まだ手後(ておく)れでは無いと云ったのが、何より気丈夫なので、男爵は其の言葉を力とし、授かった処方の通りに、薬を服する事五日目に及んだが、我が病は未だ軽くなったとは思われない。咽喉の乾き方などは、幾分か激しさを加えた程なので、五日目に再び博士を訪(おとな)うと、博士は前よりもなお細かに問い掛けた末、非常に重大な面持ちで、

 「貴方の仰(おっしゃ)る兆候は甚(はなは)だ不愉快な性質です。」
 男爵は驚いて、
 「エ、不愉快とは危篤と仰(おっしゃ)る心ですか。」
 博「イヤ危篤よりも寧(むし)ろ奇怪です。神経質な患者ならば私は決して当人には、打ち明けては言いませんが、貴方が気丈な方ですから、私の思うが儘(まま)をお聞かせ申しましょうか。」

 男爵は此の言い回しに益々驚き、殆ど恐ろしいほどに思ったが、今は背水の陣を布(し)いた心で、断固として、
 「ハイ、そう仰られては、なおさら聞かなければなりません。決して神経は痛めませんから、安心して仰って頂きましょう。」

 医「ですがどれ程の勇者でも、直接聞けば、震え上がる様な恐ろしい事柄ですが。」
 男「アア分りました、到底不治の病として、医師が投げ捨てる様な病に、私が罹って居ると仰るのでしょう。」
 博士はまだ言い兼ねてか、言葉を迂(ま)わし、
 「イイエ、貴方の身体は極めて強壮な組織です。少しも病の気は有りません。他人が密(ひそか)に妨げさえしなければ、充分に九十歳以上までも生きられる性質です。」

 男「エエ、他人が密に妨げるとは、」
 博「それが今の場合です。誰か密に貴方の長寿を妨げて居るのです。」
 男「私には未だ分りませんが。」
 博「イヤ誰か、毎日一滴づつ、貴方に極めて微妙な毒薬を飲ませて居ます。貴方は自分で気が付かずに、効き目の遅い毒薬を飲まされて、ハイ殆ど嬲(なぶ)り殺しとも言う様に、少しづつ毒殺され掛かって居るのです。」


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