巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune116

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.17

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百十六

 小浪嬢が穏やかならず顔色を変えるのを見、男爵は忽ち其の心を推量して、アア此のコップには毒を盛ってあるのだ。我にこの様に拒まれて、さては薄々悟られたかと驚き恐れ、顔色を変えたのだ。
 男爵はこの様に推量すると共に、怒りが心頭に込み上げて来た。
 己(おの)れ毒婦め、親切を以って我を迷わせ、迷いに乗じて、毎日此のコップを以って、我に一滴づつの毒薬を飲ませて居たのか。

 西泉博士が、毒薬の行使者は常にその人の、最も信用する者の中に在りと云った言葉、今はひしひしと胸に応え、男爵は殆ど荒れ狂う程の剣幕だったが、茲(ここ)は流石に年の功である。
 イヤ待て、この様な疑いは、安易に面に現すべきでは無い。一旦夫(それ)と言い放っては、取り返す道も無く、調べる手立ても絶えてしまう。

 先に園枝を疑った時も、証拠で無いものを証拠と思い、疾(はやま)って事を運こんだ為、此の上ない過ちを醸(かも)し、悔やんでも返らない恨(うら)みの種を残してしまったのだ。今小浪嬢が顔色を変えたくらいの事では、未だ直接の証拠だとは、云うべきではない。是から小浪嬢に遠ざかり、我が身体に毒薬の兆候が愈々(いよいよ)薄らぐ事があったら、其の時こそ、初めて嬢が毒薬行使の本人である証拠を得たとこそ云うべきである。其れ迄は、なるだけ疑いを押し隠し、嬢にも誰にも油断をさせて置かなければならないと、漸(ようや)く心を推し鎮めて、

 「いや、貴女の手から頂く物を、決して拒むのでは有りませんが、今日は何だか食べ過ぎの気味ですから。」
と云い繕ろった。
 嬢は男爵が疑っているほど罪深くは無いが、だからと云って、コップの中に注いだ一品は、何人に知られても恥かしく、殊に男爵に知られては、心の底を見透かされて愛想を尽かされ、縁談破約にも成り兼ねない程のものなので、非常に驚きは驚いたが、男爵の云い繕うのを聞き、幾分かは安心し、
 「イエ、何だか貴方が常と違って、お気短く見えますのは、矢張りご病気の為でしょう。」
などと答え、此の場は先ず無事に治まった。

 翌日になって、嬢はこの夜男爵と打ち合わせた通り、早朝に此の地を立ち、聖レオナードを指して引き上げたが、男爵は後に残って、又も以前の様に心淋しさに耐えられず、頻(しき)りに独身(ひとりみ)の味気無さを感じたが、彼の毒薬に罹った兆候は、日に日に薄紙を剥がす様に薄らいで行き、一週間の後には、血色も大いに回復し、食事も進むに至ったので、男爵は夢が覚めた様に、小浪嬢に迷った我が愚かさを知った。

 しかしながら、斯(ようや)く気が附くと共に、胸の中には益々穏やかではない所があった。昨年我を毒害しようと謀ったのも、矢張り此の小浪嬢だったのだろうか。彼の時の毒薬と此の度の毒薬とが全く同じ品と云うならば、前後同じく嬢の仕業と見る外は無いけれど、だからと云って、嬢がこれ程迄、我を狙う筈だとは思われない。或は常磐家の財産に目を附け、我と園枝の仲を違わせようとして、イヤイヤそれならば、唯園枝を追い出すのに止まるはずだ。
其の上に更に我を殺そうとする謂(いわれ)は無い。実に是は何の為だろう。

 先に受け取った無名の手紙には、毒薬の行使者が、旅行先まで付き纏(まと)って行くだろうと記して有った。果たして付き纏って茲(ここ)まで来たところを見れば、彼の手紙も満更の無根では無い。其の時から既に、小浪嬢の仕業を見破って記したのか、我が目には見えなかったが、嬢の身には、他人に見破られる程の悪意を蓄えて居たのか。

 何しろ合点の行かない事ばかりなので、更に深く思い廻してみると、彼の手紙には皮林育堂が永谷礼吉と謀りごとを通じ、我が一家の災いを起す様にも記してあった。皮林は化学師と聞くので、毒薬の調合は必ず人よりも巧みに違いない。何れにしても毒薬の因(もと)は彼の手から出て来たのに相違無い。
 そうだとすれば、嬢は或は皮林と秘密の夫婦にして、園枝を中傷(きずつ)けた其の頃から、共々に力を合わせて計略を廻らし、今に及んでも、まだ共に我が破滅を計っているのだろうか。

 思い廻らすに従って、事の本質は益々深く益々暗いので、男爵は最早や一刻も、此の儘(まま)には捨てて置くことが出来ず、初めに思い定めた通り、小浪嬢を追って行って押し捕え、何も彼も白状する迄に厳しく取調べようと、嬢が発してから十余日の後、小部石大佐を一同の付き添い人に任せ、更に西泉博士にも充分に頼んで置き、其の身は俄(にわ)かに用事が出来たので、急ぎ英国へ帰って来ると称し、唯一人、小浪嬢の後を追い、此の土地を出立した。

 途中で念の為にと思い、巴里府に立ち寄り、二三の有名な医師を尋ねて、彼の西泉博士に診断を頼んだ頃の我が病症を問うと、何れも、毒薬の作用であると言う事は、西泉博士の言と異ならなかった。
 更に男爵は毒薬の作用などを聞き合わせ、其れや是やで、多くの日を費やし、終に本国に立ち返って、聖レオナードに到り、再び小浪嬢と顔を合わす事となったのは、嬢と別れてから、凡そ一月の後であった。

 知らず、此の再度の面会は、嬢と男爵との間に、如何なる波瀾を捲き起そうとするのか。


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