巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune117

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.18

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百十七

 男爵は一月の後、聖レオナードに着き、予(かね)て定宿としている家に投じ、旅装を解くと、当時は丁度海水浴と云う事の流行が始まった頃で、宿屋は殊の外雑踏し、充分手も廻らないと見え、待遇(あしらい)も、是まで幾度か来た時程篤(あつ)くない。それでなくても腹立たしい事ばかり打ち続いて、気が苛立(いらだ)っている男爵なので、厳しく帳場の者を呼び寄せ、此の宿に我を待ち受けている婦人がある筈だがと詰(なじ)ると、帳場の者は初めて思い出した様に、其の婦人は此の宿から、もっと静かな家を好むと言い、貴方様がご到着次第に、御渡し申して呉れと、一通の手紙を残して去ったと答えた。

 さては小浪嬢、我に対して陰謀を企(たくら)む身だけに、我が定宿に永く留まるを都合悪く思い、人目の少ない、他の家に移ったかと、是さえ胸障りの種となり、早く其の手紙を持って来いと、叱り附けて取り寄せながら、封切って読み下すと、其の文句は短かいけれど、流石多年の手練だけに、恋人同士の非常に切なる想いを、言葉巧みに書き現し、

 「御身に別れて以来、海浜の変化多い風色も目に留まらず、明け暮れに瑞西(スイス)の空を眺めて、待ち侘(わ)びるばかりです。」
などと記し、更に、
 「この様な混雑の宿屋では、充分御身の保養とはならないに違いないと考え、静かな家を借り、二人の幸福を邪魔する者のない様に、用意して待ち受けます。」
などと認めてあった。

 男爵は嬢と別れて以来、毒薬の兆候は全く消え、心身共に日頃の健康に復したので、今は我にたいする毒薬行使の本人が、小浪嬢であることを事充分に確信して、寸分も迷うことはない。此の手紙を其の儘(まま)裂(さ)き捨て、直ちに嬢の許へ、今着いた旨の使いを発し、其の身はその後から二十分ほどを経て、嬢が許(もと)を指して行った。

 今日こそは、昨年以来我が身に付き纏(まと)う災いの因(もと)を究め、園枝に対する疑いの真偽をも突き留める時であると思うので、心自ら躍り騒いで、戦場に臨む様な気がするのを、強いて推し鎮め、踏む足も非常に確かに歩んで行くと、嬢は此の頃雇った一人の腰元を引き連れて、宛も幼い頃から、供無しには外出したことは無いと云う程の容態で、家の外まで出迎え、男爵の顔を見て喜ぶことと言ったら、並み大抵ではなかった。

 此の喜びだけは満更偽りだけでは無く、先ず心情から発するものと見て、男爵は喜ぶままに喜ばせ、迎える儘(まま)に迎えられて家の内に入った。
 頓(やが)て、其の居間に入ると、嬢は腰元と共に男爵を手の掌(うち)に、丸め込むかと疑われる許りに待遇(もてな)して止まない。しかしながら、心に深い仔細を包む男爵は、兎角其の言葉の端に角を現し、我知らず嬢の耳障(ざわ)りとなる様な語を交えるのに、嬢は漸く気が附いて、

  「オヤ、貴方は未だご病気が充分には、お治り成さならないのですか。」
と問う。男爵は十二分に苦々しい口調で、
 「イヤ、貴女が出発してからは、お蔭で、イヤお蔭でと云う事もないが、次第に快く癒(い)えました。此の顔色でも分かっていましょう。」
と答えた。
 嬢は何気なく聞き流して、
 「オヤ、未だ、毎(いつ)も貴方のお好みなさるお茶も上げていませんでした。」
と云い、手づから例の恐ろしいコップを取り出して、注いで差し出した。

 男爵は此の茶こそ、中に微(ひそ)かな毒薬を混ぜ隠し、我を一寸づつ嬲(なぶ)り殺しにする、命取りの飲料(のみもの)だと予(か)ねて知っているので、今もまだ嬢が毒薬の行使を怠らないのかと、身の震える程恐ろしく又腹立たしく、自ら平気に構えようとしたが、平気でいることは出来なかった。咽喉に詰まるほど涸れ乾(かわ)いた声で、先の別れる前夜に云ったのと同じく、

 「イヤ、今日はお茶を飲まないことにします。」
と云うと、二度までも同じ異様な言い振りに、嬢も聞き咎めない訳けには行かなかった。
 「オヤ、貴方は妙に仰(おっしゃ)います。どう云う訳で、此の茶が飲まれない様に仰りますか。」
と口だけは強く云い出たけれど、心に幾分か咎める所があるので、何と無く恐れを帯び、其の顔さえ赤くした。

 男爵は心弱くては叶わない場合と、殆ど必死の勇を集め、
 「ハイ、私が此のお茶を飲まない仔細は、聞く人の無い時に申しましょう。今直ぐに聞き度いと言うならば、腰元をお退け下さい。」
と言葉は愈々(いよいよ)角立つので、腰元は嬢からの目配せを待つまでもなく、極まり悪るそうに、次の間に立ち去った。

 後に男爵も小浪嬢も少しの間無言だった。嬢の顔は火よりも赤く、男爵の顔は死人の色よりも青い。正に是れ狂風怒涛が起ころうとして、一天先ず墨の様に曇り、唯人を圧殺するほど静かな光景と同じではないだろうか。


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