巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune122

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.23

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百二十二  

 園枝夫人が何故にこの様に浅ましい姿で、この様な所に来たのだろう。読む人は大抵は察して居ることだろう。園枝夫人は先に獄中で、彼の悪人古松に、実父の事を聞いてから、唯夫(それ)だけが気に掛かり、特にその父が我が身を失ったことに失望し、今も世界を漂泊しているかと思うと、懐かしさ又痛わしさに、身も世も無い想いをさせられ、何も彼も捨て置いて、その後を追って行こうと決心し、病院で腹の子を産み落とした後は、僅(わず)かにその身の健康が、常に復したのを幸いとし、院長から退院を言い渡されるまで待つことが出来ず、子を抱いたまま抜け出して来たものである。

 古松の様な悪人の言葉を、これ程までも深く信じるのは、非常に不思議なことのようだが、虫が知らせると云うものか、この事ばかりは偽りでは無い気がして、更に古松が今まで堅く我が身の素性を知らさないように努めていた事も、我が実父が、生きてこの世に存(ながら)えて居る証拠で、その外彼古松の日頃の行ないから考えてみて、彼れ是れ思い合わされる節も多く、胸にひしひしと応えるものがある。

 今追って行って、果たして父に逢うことが出来るか否か、逢っても果たしてその父が、我が身を昔失ったその娘と思うかどうかなどは、深く考えて見る暇もなく、唯只管(ひたすら)に恋しくて、我と我が身を制しかね、火焔(ほのほ)に引かれる夏虫が、迷う様に出て来たけれど、着のみ着の儘(まま)、その夜の食物の料(しろ)さえも無い身が、何のようにして、遥々(はるばる)の旅行を企てる事ができると云うのだろうか。

 しかしながら、この様な労苦は、今が始めてでは無かったので、直ちに世界を股に徘徊する、或る見世物の興行人を尋ねて行き、其の一行中に加えられて、先ず仏国に渡り、一週間ほど音楽を以ってその見世物を助けた末、僅(わず)かに得た給金で、一挺(いっちょう)の提琴(バイオリン)を求め、その後はこれを親子の命の種とし、駅から駅にそのバイオリンを弾いて渡り、欧州北岸の港々を順々に尋ねて行くと、それか有らぬか、古松が云った遊山船の一時停泊したのを見たと云う人が有った。

 これに益々力を得て、野に寝(い)ね、山に伏すのも厭わず、苦労と云う苦労を嘗(な)め尽して、終に阿蘭陀(オランダ)迄来た。又も諸所の港で尋ねたが、乞食同様の悲しさ、充分確かとしたことを聞き糺(ただ)す方法がなかったが、何うやらそれかとも思われる船が、数日前にヨルドの港に向ったと云うのを聞き出すことが出来た。

 時日を定めて航海する船と違い、船長の気の向き次第で、同じ所に幾日も幾月も繋留(けいりゅう)する様子なので、急ぎヨルドに行けば、多分はその船が出帆する前に、出会う事が出来るかも知れないと、それから一意に道を急いだけれど、寒さと飢えに足も進まず、果ては道端に倒れて正気を失う程となったが、通り合わせた旅人に助けられ、近辺にある宣教師の家に連れ入れられたのは、この一夜前の事であった。

 ここで温かい食事を恵まれ、更に充分な介抱を受けたので、漸(ようや)く身体に力を得、園枝は問われる儘(まま)に、名の知れない父を尋ね、ヨルドに行く旨を語ると、流石慈善を旨とする人なので、我自ら聞き合わせて遣ろうと云ったが、園枝は人に托する様な軽々しい用事では無い、是非とも自身で行かなければと云うので、宣教師もその心を憐れみ、それならば、同行して目的を得させようと云い、ここまで共に来たのである。

 それでも宣教師は、園枝が再び寒さに倒れるのを恐れ、途中幾度も、我が家に帰って待ちなさいと云い聞かせたが、園枝の決心は凛(りん)として動かし難く見えるので、今は仕方が無いと云って、是からは無言になり、終に夜の七時過ぎに、その港に着いたが、彼方此方に舷灯の光りは見えても、海暗くして明らかにはその船体を認める事は出来なかった。

 それで歩みを転じて税関に行き、当直の役人に逢い、数日前に一艘の遊山船がこの港に来たと聞くが、今もまだ繋留しているかと問うと、吏員は訝(いぶか)る顔で、この辺は遊山船が多く来るような所では無い。唯北極の異光(オーロラ)を見る為め、諾威(ノルウェー)に旅行する英国気象学者の一行が十人ほど商船の乗客となり、近々に来ると言う事を、聞いてはいるが、その事ではないかと答える。

 是れは固(もと)より、園枝の尋ねる船で無い事は明らかである。
 宣教師は園枝を顧みて、更に吏員に打ち向い、いいえその一行では有りません、既に数日前にこの港に入った船ですと云うと、吏員はその船の名を聞き、又船長の姓名なども問うたが、園枝も宣教師も勿論、之に答える事は出来なかった。

 吏員は殆ど立腹の様子で、
 「それでは雲を掴む様な話しです。船の名も船長の名も分らんでは、何処で聞いても分らないでしょう。」
と言い放ったが、この返事に園枝が非常に絶望する様を宣教師は非常に気の毒に思い、更に吏員に向い、懇々と請い尋ねると、吏員も宣教師に免じて、情け無く断り兼ねてか、

 「では船舶出入りの日記帳を調べて見ましょう。」
と云って退き、暫くして厚い帳簿を持って来て、
 「今月の初めから今までの所で、遊山船は一艘も有りません。皆定期の商船です。唯一艘だけ、定期商船でないのは、茲(ここ)に北洋探検の船が寄港されて居ます。」

 北洋探検と聞き、園枝は古松の云った言葉と符号するのを思い、我知らず、
 「アアそれです。」
と声を発して進み出て、
 「そうして船長の名は何と記して有りましょうか。」
吏員は園枝を尻目にして、更に宣教師に向い、
 「船の名は『イタリアン』(伊国人の義)と云います。」
伊国人と云うのさえも、予(か)ねて園枝の心に残る我が父の国籍に似ている。園枝は又一歩進み出ると、此の時宣教師は園枝の以前の問いを繰り返し、
 「船の号は『伊国人』、船の船長は」
 吏「ハイ、船長は牧島侯爵と有ります。」

 アア牧島侯爵か、牧島と云う姓は、薄々園枝の耳に留まっているもので、園枝自ら常磐園枝と云わずに、牧島園枝と称する程の次第なので、この牧島侯爵が我が父でなければ、誰か又我が父であるだろう、園枝は宛(さ)ながら狂気の様に、
 「その船は何処に居ます。その牧島侯爵に逢わせて下さい。」
 吏員は犯し難いほど厳重な顔色で、
 「その船は昨朝、当港を出帆しました。勿論危険な北洋探検ですから、乗組員一同死ぬ覚悟で、当税関長も波止場迄見送りました。」

 園枝はこの無惨な返事を聞き、
 「エ、エ、エ」
と三声三様に打ち叫び、
 「アノ一同が死ぬ覚悟で」
と云ったままにそこに悶絶してしまった。


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