巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune127

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.28

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百二十七

 この植木屋の隣りで、この様に怪しい人々に探られるのは、誰の家だろう。是こそ実に園枝が世を忍ぶ仮の住居(すまい)である。園枝は先きに、和蘭(オランダ)の税関で、我が実の父の名は牧島侯爵と云うのを知る事が出来たが、又其の父が死を決して、北洋に分け入ったと聞いては、悲嘆の余り、其処に悶絶したが、付き添っていた宣教師の介抱で、漸(ようや)く我に帰った後は、この世が殆(ほと)ほと厭にになったが、肌に抱く乳呑児の末を思えば、死ぬにも死なれず、力なくなく気を取り直し、同じ宣教師の世話に由り、或る静かなる家に音楽の内教師として住み込んだ。

 是から日を経て、我が児が次第に成長し、母の顔ばかり打ち眺めて笑むのを見ては、今までに感じていなかった可愛さを催し、暫(しば)しは身の上の憂きをも忘れる許(ばか)りだったので、この子を充分に育て上げて、人並みに出世させようと、唯それだけの一念で奉公を大事に勤め、用事の無い時は部屋に隠れて其の子を抱きしめ、絹よりも柔らかい頬を我が肌に推し当て、

 「オオ最愛(いとし)や可愛や、真実にこの母を愛して呉れるのは和女(そなた)ばかり、和女に限って心の変わる事も無い。どうかこの不幸な母の運を受け継がず、早く育って出世してお呉れよ。」
など他愛も無く云い聞かせるのは、唯束の間の欝(うさ)晴らしであった。

 この様にして居る中にも、牧島侯爵と云う我が父は、何れの所に住み、如何に暮らしていた人なのだろうと、始終心に掛かるので、時々それとなく人に聞きなどしたが、或時雇い主の書類に、各国爵位鑑(かがみ)の有るのを見たので、それを借り受けて調べて見ると、牧島と云う貴族は昔から、唯伊国(イタリア)に一家あるだけ、しかも侯爵にして、非常に富裕な家柄の如く記して有った。

 是れが我が生まれた所かと、胸の轟くのを覚えたが、又思えば、我が身が、彼の古松に奪い去られてから、父があの通り絶望し、世界に流浪し始めたとしたならば、きっと其の家も絶えたのに違いないなどと、様々の想いに迫られ、その後は伊国(イタリア)に旅行した事の有る人と聞く度に、其の人に就(つ)いて、様々な事を聞くと、或る人の話では、かつて古松が獄中に我を尋ねて話した所と、大方符節を合わす様に、

 伊国(イタリア)羅馬(ローマ)府を去ることほど遠くない地で、山を負い海を控えた絶景の所に、二十年前まで牧島侯爵の邸であると云って、今は雨に晒され、風に侵(おか)され、荒れ果てた屋敷がある。その主人侯爵は一人娘を設けて妻に死なれ、間も無く何者にか娘をさえ奪い去られた為、絶望して行方さえ知れなくなった。この荒れ果てた屋敷を見て、侯爵の不幸を憐れみ、世の果かなさに涙を流さ無い人は無いと云った。

 園枝はこの話しを聞くまでは、唯我が児を育て上げる一念でいたが、此の時からは、又一層の奮発を起し、広い世界に我が家と云う家の無い我が身にとって、父の其の屋敷の外に、身を落ち着けるべき所があるだろうか。其の家は我が家にしてこの児の家である。我が身がこの児のため、身の続くだけ働いて、その屋敷を買い入れ、昔の様に修繕して、この児を住まわせよう。父が若し北洋で亡き人の数に入ったならば、その屋敷を我が身の物とする事は、追善の一端ともなるだろう。生きて尚帰る事が有るとすれば、我が身が尋ね出して、父をその屋敷に迎い入れよう。そうすれば父の喜びは如何ほどだろうとこの様に心を決した。

 それからは只管(ひたすら)に身を励まし、様々な賃仕事などをして、雇い主から得る給金の外に、更に得る丈の金を積み、三年目には、自ずから驚くほどの高となったので、之を当分の糊口の料とし、仏国の劇場に出演しようと心を定め、それにしても我が顔を公衆の前に晒しては、これを昔の常磐男爵夫人であると覚えて居て、評(うわさ)する人も有るだろう。又後々の妨げともなるかも知れないなどと考え廻し、覆面で舞台に上る事とし、雇い主から暇を得て仏国に来て、運を試めして見ると、物事は思ったより旨く行き、僅かな間に莫大な給料を得るに至ったので、この様子ならば、数年を経ずして一念を果たす事が出来そうだと独り喜び、先ずそれまでの住居にと、此処に静かな家を借り、乳母を雇って児を守りさせ、外に一人の女中を使い、人に隠れて住む事とはなったのだった。

 それはさて置き、怪しい男両人まで、園枝の事を尋ねて来た翌日の昼過ぎであるが、園枝は劇場に出る刻限迄、何の用事も無かったので、例(いつも)の如く娘の手を引き、非常に幽遠である庭の木の間を散歩しながら、娘が少し疲れたのを見て、置き台の上に腰を下ろし、娘を膝に抱き上げ、
 「コレ二葉(ふたば)や、和女(そなた)の名は二葉と云うのだよ。牧島二葉と、サア自分の名が言えるか云って御覧、二葉とさ。」
 二葉は母の心を聞き分けてか、まだ舌足らぬ調子で、僅かに二葉と聞こえる様に云い綴ったので、園枝は嬉しさに絶えられず、
 「オオ、賢い事、人が若し嬢さんの名はと聞いたら、其の通り二葉と云うのだよ。」

 殆ど余念も無い折柄、遽(あわただ)しく此処へ馳せ来たのは二葉の乳母である。何か物にでも驚いた様に、
 「貴女大変ですよ。」
と云う。園枝は騒がず、
 「何だネエ、仰山に、この児が吃驚(びっくり)するじゃないか。」
 乳母「イイエ、大変です。是非とも貴女に逢い度いと言って、立派な方が尋ねて来ました。」
 人の来るべき筈は無いのにと、是には園枝もやや驚き、
 「それは多分門違いでしょう。」
と云う。

 言葉の未だ終わらない中、庭の彼方に立ち現われ、園枝の姿を見て、馳せ寄る様に歩み来るのは、これこそ其の昔、園枝の良人(おっと)として、今も尚、夫婦の縁の絶えたともなく、又絶えないともなく隔たっている常磐男爵であった。





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