巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune128

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.1

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                     百二十八

 馳せ寄る常磐男爵の顔を見て、園枝は夢かと計(ばか)りに打ち驚き、膝に抱いていた娘二葉を、取り落とそうとする程に立ち上がった。驚くのも道理である。妻では無い、良人(おっと)でも無いと言い渡され、不義悪業の汚名を得て、男爵の家を出てから、不幸と云う不幸を嘗(な)め尽くし、困難の底に落ち沈んだ身が、再び男爵に訪ねられる事が有るとは、実に思いも寄らなかったからだ。それに男爵の面影も、今は昔の様に晴れやかでなく、痩せ果てて非常に陰気に衰えていたので、園枝は殆ど男爵の幽霊かと怪しむ許(ばか)りだった。

 乳母は園枝が娘二葉を取り落とそうとするのを見て、是れは通例の客では無い。何か深い仔細の有る事に違いないと思い、直ちに二葉を抱き取って家の内へと退いた。後に園枝はまだ夢の心地で、思案さえ定まらないのに、男爵は早や近づいて来て、園枝の前に在り、今しも乳母の抱き去った娘に、忽(たちま)ち目を留め、其の身が何の為此処に来たのかを忘れた様に、

 「オオあれが和女(そなた)と私の間に生まれた両人の娘か。名は何と云う。アアこの様な可愛い娘まで出来た仲で有りながら、永の年月苦労を掛けて。」
と身を恨む涙声で我知らず口走るのは、胸に溢(あふ)れる親子の愛、又夫婦の情にして、押さえ兼ねた真心に違いない。

 園枝はこの間に恨み辛みや悲しさに、千々に心も掻き紊(みだ)れ、その身を支えている事が出来ない程だったが、凡そ非常の場合に臨んで、恐ろしい程その心を落ち附ける事が出来たのは、女であるからこそであった。特に園枝は今迄、心の激動する様な境涯をばかり経て来たので、少しの間に殆ど怪しい迄に我が心を推し鎮(しず)め、容(かたち)を正して、非常に静かに男爵に打ち向い、

 「貴方は何のためこの庭に入って来て、何の心でその様な事を仰(おっしゃ)います。」
と咎める様に問う様は、昔男爵夫人であった頃より、少しも品格を落としていない、なお気位高い園枝である。
 この姿を見て、誰が又この婦人が、獄中の困難を経、乞食同様の境涯を経て来た者と思うだろう。
 実に雲の上から降り下った天女の化身でも、これほどまでには、姿が備わることは出来ないに違いない。

 男爵はこの一声に忽ち心我に返り、我が身が園枝に詫(わ)びようとして来た事を思い出し、頽(くづ)れる様に園枝の前の芝生の上に膝を折り、園枝の裳(すそ)に縋(すが)り附いて、
 「コレ園枝、和女(そなた)がその様に言うだろうとは思って居た。今日は今までの過失を詫び、和女を元の身の上に返って貰う積りで謝罪(あやま)りに来た。何も彼も私が悪かった。何とも云はずに私の罪を許して呉れ。」

 園枝は唯静かにその身の足元から男爵の身を引き起こし、散台の一つを引き寄せ、労(いた)わる様に男爵を其の上に腰掛けさせたが、自ら一言も口を開かない。
 男爵は更に半ば泣き声で、
 「園枝、園枝、今までの事は重々私が悪かった。恨めしく思うのも尤(もっと)だ。何と云われても一言の弁解もない。私はもう我が身の過ちが悔しくて、此の両三年、家も捨て、世間も捨てて、和女の行方を捜して居た。

 和女が牢を出たと聞いた時から、唯の一日、イヤサ唯の一刻も後悔をしない時はない。和女を思はない時は無い。コレ園枝、今までの私の過ちを、唯の一言、許して遣ると云って呉れ。コレ、コレ。」
と両手を園枝の膝に置いて揺り動かす様にしたけれど、園枝は石に化したかと疑われるほど静かであった。身をも頽(くづ)さず、顔の一筋をも動かさない。

 男「オオ、私が今迄和女を苦しませた事を思えば、和女からどれほど辛く仕向けられても仕方は無い。私は十日でも二十日でも和女の心の解けるまでは詫びに来る。それにしても唯一言、何とか言葉を掛けて呉れ、園枝。」
 園枝は猶(なお)も返事をしない。

 男「何うしたら和女の心が解ける事だろう。世間の人は孫の顔を見る程の五十と云うこの年になり、自分の過ちとは云いながら、妻の行方を捜して一刻の安楽も得ず、我が子さえも唯生まれたと聞く許(ばか)りで、その顔を見る事も出来ず、日に日に痩せ衰える、この老夫を和女は哀れと思って呉れないか。謝罪(あやま)った謝罪ったと、是ほどに云うものを、何とも返事して呉れないのは、もう常磐男爵と云う其の名前まで忘れたのか。」
と身を裂くほどの切ない言葉に、園枝は唯一言、非常に幽(かす)かに、

 「イイエ」
と答える声が、そのように幽(かす)なのは、高く出しては震えるのを恐れてだろうか。
 男「オオまだ忘れないとならば有難い、それなら許すとか許さないとか云って呉れ。」
 園枝は漸く我が声の震える恐れがないと見てか、前よりはやや明らかに、
 「イイエ、何も許すとか許さないとか云う様な事柄は有りません。」
 男爵は之を許しの言葉と聞き、

 「オオ有難い、それでは何も彼も忘れて呉れたか。」
 園「ハイ夫婦で有った事さえも忘れました。縁を切って全くの他人となり、何の許すも許さないとも云う事がありましょう。」
と答える声、真に何も彼も忘れたのに似て、全くの他人に向うよりもっと冷淡に聞こえるばかりだった。





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