巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune15

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.8

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            十五

 問わずに救ってくれるならば救われましょう。答え難きを答えてまで、救われる心は無し。是れが少女の決心である。如何に自分を重んじる貴夫人であっても、この少女の様な困窮に陥ったならば、ここまで気位を高く持ち続けることは出来ないだろう。

 この少女、唯その声その容貌が優れているだけでは無く、心までも天性の貴夫人である。男爵は只管(ひたすら)に感心し、更に好く考えて見れば、成程この少女、自ずから我に救いを求めたものでは無い。我の方から進んで救おうと、この宿に連れて来た者を、今更素性を聞かなければ救う事は難しいと問責めるのは、恩を餌として少女の心を強いることと同じだ。

 初めから身を卑屈にしてまで救いを求める心の無いこの少女が、立ち去ろうとするのも無理は無いと、忙しく思い廻す間に、少女は一夜の宿りを生涯の恩に思い、それを謝す印までに、宛(あたか)も父の手を取る様に、男爵の手を取り上げ、非常に静かにその甲に接吻をした。

 是が別れ、少女は早や立ち去ろうとする。男爵は茲(ここ)に至って胸に非常に強く、又異様な思いが充ち満て、少女が去ると共に我が身、我が命まで空虚となる様な心地がし、それに少女が嘆きはしないながらも、一種失望の容(さま)を隠し、再び冷たい浮世に出て軒下に飢え、石畳に倒れるのは、その身の運と断念(あきら)めて、恨む色も無く唯悄々(すごすご)と去るのを見ては、痛はしいとも情(あは)れとも、言うべき言葉も無く、我を忘れて声を発し、

 「待って」
と一言叫んだ。
 少女は戸口に立留まった。
 男「ハヤ、何の様な事が有っても、この儘(まま)何の手当てもせずには返せない。イヤ救って遣る。お前が身の上を打ち明ける事が出来ないと云うのは尤(もっと)もだ。」
 云う言葉には無量の真実が有って、慈悲の心が溢れるほどに見えたので、少女も深く感動した様に、

 「貴方のお慈悲は、お礼の云い様も無い程ですが、---、私からお救いを願いは致しません。私の今までは自分の口では、お話の出来ない程恐ろしい身の上です。罪深い人々と交わり、汚らわしい振る舞いばかり見て、ハイ、正しい人間の有様では有りません。夫でも唯自分だけは、その汚れに染まらない積りで居ますので、若し私を汚れの無い者と信じ、泥の中から救い出して呉れる人が有れば、有難く救われますが、罪の中に育ったから、その身も汚れて居はしないかなど、疑う方には救われ度く有りません。疑われると知りながら救われるのは、それだけこの身を汚す様な気が致します。」
と思いのたけを話すのは、是まで飽くまでも汚れに染まらない、その気象を見るにの充分である。

 この様な女の心こそ、火に入っても火に焼かれず、水に入っても水に濁らず、如何に罪深い境遇に陥入(おちい)っても、罪を離れて独り好く身を支へて立つこと必定なので、この女の過ぎ越し方に如何なる事が有ろうとも、その身は全く汚れていないことは明らかであると、男爵は見て取って、

 「アア、その気象は感心だ。お前の過ぎ越し方に非難する事が有ろうとは思わない。私はもう目を冥(つぶ)って救ってやる。」
 是は千歳(せんざい)復(また)と得ることが出来ない心の知己である。誰が知己の語に感じない者がいるだろうか。男爵は唯語を継ぎ、
 「シタが一事も問は無いと云う事は出来ない。唯一ツ二ツ問う。それで問答は仕舞いとしよう。」

 少女は涙ながら、
 「ハイ、お返事の出来る丈は致します。」
 男「お前の名は何と云う。」
  女「牧島園枝と申します。」
 嗚呼(ああ)、是れ嘗(かっ)て、悪人古松を父と呼び、船長立田が殺された時、その罪に耐えられず、古松の許から逃げ去った少女、古松園枝ではないか。

 父古松が、
 「恐ろしい堅意地者」
と称したその堅意地者はこの男爵に、
 「気位(きぐらい)の高い所」
と称せられた。唯古松の姓を罷(や)め、牧島と称するのは過ぎた境遇を忘れる為、きっと自ら変えた者に違いない。

 男「歳は何歳」
 園「ハイ、十八で御座います。」
 男「お前の様子と云い、言葉付きと云い、貧民の娘では無く、上流の家庭に育った者と思われるが何う云う訳けだ。」
 園枝は茲(ここ)に到って、初めてその青白い顔に僅かに血の色を現し、

 「ハイ、扶露蓮府(フロレンス)に居ます頃、母の従兄弟が寺の住職を勤めて居まして、教えて呉れました。この上は何うか、もうお問い成さらぬ様に願います。」
 扶露蓮府(フロレンス)とは伊国(イタリア)の一都会である。男爵がこの園枝の身に付いて、僅かに聞き得た確かなことは、名前のこの一語だけ。

 「オオ、是で沢山だ。園枝、後はもう何も云わない事にしよう。」
と初めて園枝の名を呼ぶと、何とやら心が融解して、浸み渡る様に思えるのは、何の為だろうか。男爵自ら怪しみもしなかった。
 総て園枝の身に就いては、「問う事が出来ない事」ばかりなので、異様なこの感じも、男爵は問うことが出来ない事の中へ数え込みながら、更に又、園枝に向い、

 「是から後々の事を相談しよう。昨夜も私が云った通り、お前は声が優れているから、その声で身を立てるのが先ず近道だが、音楽はーーー好きかエ。」
 園「ハイ」
と唯一言答えたが、嬉しそうにその顔の輝くのを見ると、生まれ得て音楽の嗜(たしな)みのある者と知られる。

 男「ピアノの稽古は。」
 園「稽古は致しませんが、聞いて少しばかり知っています。」
 男「総て音楽の教育は。」
 園「少しも受けた事は有りません。」
 男爵は、胸に悉(ことごと)く定めて置いたと見え、別に考えもせず、

 「お前の後々は音楽で世に出る者と定め、是から英国第一等の音楽教授所を探し、その塾へ入れて遣ろう。爾(そう)して二年も修行すれば、更に立派な教師を選び、教師と共に伊国(イタリア)の大音楽場に入る様に、サア是だけは私が道を開いて遣るから、その後はお前が、自分の辛抱と勉強で仕上げなければ。」

 園枝は有難さに堪(た)えられず、
 「ハイ、爾(そう)までして下さって、人に優った辛抱と勉強が出来ないと云えば、本当に罰(ばち)が当ります。この御恩は何うして返せば好い事やら、勿体無くて恐ろしいと思います。」
と初めて真心から湧き出る、血よりも温かい言葉を聞き、男爵は益々哀れを催して、

 「イヤ、何も勿体無い事は無い。私は妻も無く、子も無くて、金の使い道に困る程の身分だから、少しの費用を和女(そなた)の身に掛け、天から和女の身に賜ったその声を、充分に磨かせる事が出来れば、何よりも本望だ。」
と今までお前と呼んでいたのを、ここに至って和女(そなた)と云うのも、園枝が、益々我が身に親しくなったのを、自ずから感じた為に違いない。

 更に、
 「イヤ、是をそれほど恩と思うなら、和女が音楽社会の大立て者と成った上でその恩を返せば好い。」
 園「ハイ、早く返される身分になる様、及ぶだけ急ぎます。」
と言う事が出来なかったのは、余りの有難さに、胸も塞(ふさ)がったためだと知ることが出来る。

 男爵は察して遣って、その心を取り鎮める暇を与える為、それとは無く立ち上がって窓に到り、しばらくその顔を園枝から背けて待つのも、情けの上の情けからだった。


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