巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune16

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.9

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 十六

 園枝が漸く涙を収(おさ)めた頃を察し、男爵は窓から返って、復(ふたた)び元の椅子に凭(もた)れ、最早全く打ち解けた語調で、
 「こう決まれば、私は直ぐ倫敦(ロンドン)へ引き返し、和女(そなた)の入るべき音楽の教授を捜し、委細の手筈を運んで置こう。和女の事はこの家の女主(あるじ)に好く頼み、衣服その他の仕度など調(あつら)える様にして置くから、和女はこの家に一週間逗留し、一切の用意が出来次第に、アリントン街の常磐邸へ来るが好い。常磐邸には私が居て、万事の手筈を終えて待っているから。」
と言い、更に又、

 「オオ、今一つ和女に聞いて置く事がある。和女の今までの知人とか友達とか言う者の中で、後々和女の身に就いて、かれこれ種々の事を言込んで来る者は居ないだろうな。」
 園枝は少しも猶予せず、
 「ハイ、私は広い世界に唯一人です。友達も知人も無く、後々までも尋ねてなど来る者は、唯の一人も有りません。」
と明らかに言い切った。

 これで男爵は安心し、何も彼も定ったので、園枝を一室に退かせ、更に宿の主人を呼び、園枝の為に四季一切の衣服調度を一週間内に作らせ、其の出来次第、園枝を倫敦(ロンドン)にある我が邸に送って呉れと云い、其の費用として、五百金の小切手を与へ、更に未だ不足したら、如何ほどであっても補うので、衣服は成るたけみすぼらしくなく、地味質素で好い品を選ぶようになどと伝えると、主人は世故に長(た)けた女なので、充分に呑み込んで、衣服の見立てなどは、全くお心を煩わし給うには及びませんと引き受けた。

 最早やこの家に長く留まる用がないので、男爵はこの日の中に、再び倫敦に引き返す命を伝え、馬車の用意を言い付けると、倫敦(ロンドン)から付いて来ていた従者は、我が主人、気でも違ったかと迄に怪しんだが、日頃何事も従者などには説き明かさずに、唯自分の思う儘(まま)に断行する男爵の気質を知っているので、怪しむ気振りを少しも見せず、仰(おお)せの儘に仕度を急ぎ、この日の中に倫敦に帰り着いた。

 男爵は翌日から数日の間、自ら倫敦中の音楽教授所を尋ねたが、中に西部の非常に静かな一街に汀(みぎわ)夫人と云う者が開いて居る私塾こそは、最も学科を好く選び、教え方も厳格で、何一つ非難すべき点が無いのを、確かめる事が出来たので、その塾長である汀夫人に逢い、親しく頼むと、汀夫人は、この様な貴族の頼みは、なかなか簡単には、得る事が難しい賜物なので、特別の教授法を約し、月謝その他の費用まで如才なく取り極めると、男爵は少しもその高いのに驚かず、一切を前納し、次の水曜日に当人を連れて来る事を約した。最後に汀夫人は弟子となるべき当人の名前を問い、軽くその身分に移り、

 「左様ですか。シテその牧島園枝と云う令嬢は貴方の何に当ります。」
と聞いた。是には男爵も当惑したけれど、この頃大道で拾ったと云う事も出来ず、
 「ハイ、私の、---、左様サ、極遠い縁類です。」
と答えながらも、この様な偽りと知って偽りを言うのは生涯で初めてだったので、思わず顔を赤らめたけれど、幸い窓に背を向けて座って居た為、怪しまれずに免(のが)れる事が出来た。

 是から又屋敷に帰り、園枝の来る日を待って居たが、その長く、その待ち遠しいこと、殆ど譬えようにも譬えようが無く、或時は自ら疑い、
 「今まで乞食を救い上げた例は多く聞くけれど、その乞食が何不自由無い身となるに連れ、却(かえ)って野に寝(いね)、軒下に伏して居た昔の浅ましい境遇が恋しくなり、或いは汚らわしい友達等と再び穢(きたな)い酒店に団欒(だんらん)したい心が生じ、逃げ去る事がまま有ると云う。

 若しや園枝もこの様な心が起きて逃げ去りはしないかなど、空しく心を苦しめたが、又思えば園枝に限って、其の類の女では無い。歌を唱(うた)って、世を渡ろうと勉めることはしたが、乞食の群れに入った事は全く無い。これを乞食と見做(な)すのさえ、清い少女を辱めるのに均しい。況(ま)してや、今までの浅ましい境遇を慕うのではないかなどとは、我ながら我が身に有るまじき疑いを起こしたもの哉(かな。」
と又自ら叱り消して、自ら心慰めるうち、七日目に至り、取次ぎの者が部屋に来て、
 「牧島園枝嬢が参りました。」
と伝えた。

 男爵はこの時、或新刊書を読んで居たが、心少しもその書に移らず、徒(た)だ読むだけで、何事を書いて有るかも更に知らない程だったので、この声を聞き、遽(あわただ)しく書を置いて立ち上がと、園枝は旅から住み慣れた宮殿に帰って来た女王もこの様ではないだろうかと思う程の姿で、静々と歩んで来た。質素な身の拵(こしら)えは、珠玉燦然として眼を射る様な交際社会の貴夫人より、遥かに奥床しい所がある。

 男爵は皮の手袋に包んだ園枝嬢の手を取ると、我が心が俄かに晴れ晴れしくなったのを覚え、実に春風春水が一時に来た想いがした。園枝も彼の宿に居た時の遠慮勝ちだったのに似ず、全く我が生涯を救ってくれる恩人だと、心を許して打ち解けた者の様に、男爵を見る事、父を見るのに似ていた。

 これから男爵は園枝を導き、客室から書斎に入り、音楽室に入り、絵書室に入り、果ては美麗を以って常に新来の客を驚かせる器具室にまで案内したが、園枝は世の端下無(はしたな)い女の様に、事毎に驚いて、虚呂虚呂見廻る様な振る舞いは無く、この様な所に住み慣れて且つ、この様な待遇を受け慣れたる者に似ていた。

 世には生まれ乍らにして、如何なる境遇にも適し、王の椅子に据(すわ)らせれば、自ずから王の位が備わって見え、晴れの場所に連れて行けば、何と無く四辺を圧倒する様に見える人があると聞いた事があるが、園枝の如きは、確かにその一人である。天然自然に落ち着いて優(しと)やかな所がある。

 場所に呑まれずに好く場所に適合し、一点の非難する所も無い。男爵は只嘆服するばかり。宛(あたか)も泥の中から真珠を拾った心地がして、終に食堂へと連れて行った。


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