巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune17

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.9

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 十七

 男爵は園枝を食堂に連れて入り、兼ねて用意させて置いた中食を供しながら、或いは美術、或いは絵画など、様々の話に事寄せ、園枝の嗜(たしな)みを試して見ると、園枝は何うしても賎しい女では無い。生まれながらに貴婦人の好みを備える者である。食事中に男爵は自ずから給仕の様に振る舞い、佳肴珍味(かこうちんみ)など注意して園枝の更に盛り、更に其の口に叶う様な銘酒をも注いでて与えると、園枝は急に変わった我が身の上が、有難い心に満ち、食欲も常ほどには進まないのか、僅かに箸を着けただけで、銘酒に至りては一滴も味わない。

 頓(やが)て終って、食堂を出る時は、男爵と園枝とは、話の調子好く合い、非常に親しく打ち解けた様は、多年深く交っている親友同士かと思われる程だった。
 是から男爵は馬車を命じ、園枝と共に之に乗り、彼の音楽教授所である汀(みぎわ)夫人の許を指して行った。抑(そもそ)も此の音楽教授所は或る貴族が数奇を尽くして作った屋敷だったのを、後に零落して汀夫人に売り渡した者なので、都にこの様な幽遂な場所が有るかと怪しまれる程で、樹木生茂って、遠く俗塵を遮り、殆ど浮世を離れた一構えである。
 
 園枝は外から先ずこの構えの様子を見て、喜ぶこと限り無く、
 「私が貴方の娘でも、是よりお手厚くして下さる事は出来ません。」
 男爵も、
 「イヤ、何う云う訳か、真実の娘よりもっと大事に思われる。」
などと答えて、共々内に入り、汀夫人に逢い、
 「先日頼んだのはこの娘です。」
と云うと、夫人は日頃、我が弟子の欠点ばかり見つけようとするその鋭い眼で、つくづくと園枝の様子を眺めると、一点の非をも見出す事が出来なかった。

 「ホンに男爵、貴族の血筋を引いた令嬢には、争われない所が有ります。私の弟子の中にも、この嬢ほど好く躾けの行届いた方は有りません。特に御器量と云い」
と言い掛け、園枝の顔を再び眺めて、
 「この様な弟子なら、教えるにも張り合いがありますよ。」
と云った。

 この様子ならば決して素性を見破られる恐れは無いと安心して、更に様々の事を頼み、更に夫人が退いた暇を得て、園枝に向って、
 「和女(そなた)を遠い縁類の様に言って有るので、その積もりで居るように。」
と言い聞かせ、更に愈々分れに臨み、

 「私は直ぐに倫敦(ロンドン)を引き上げて、常磐荘園に行き、これから一、二年、欧州大陸へ旅行する故、今、明年は再び逢う事も出来ないだろうが、その間に何か用事でも有れば、アリントン街まで送れば、その儘(まま)で直ぐに私の旅行先まで送って呉れる。是で当分の分れだから、神妙に勉強するが好い。」
と言って、園枝の手を取ると、園枝も分れが惜しまれる様に、

 「何うぞ御機嫌好く。」
と答えるのさえも、涙声である。
 この様にして男爵は園枝を残して、汀(みぎわ)夫人にも分れを告げ。この所を立ち出ると、何故か急に我が一身の淋しさを覚え、園枝の顔が我が目の前に無いのが、何よりも物足りない心地がして来た。

 「アア、何う云う訳か、二十年も子の様に育てて来た甥の永谷礼吉は勘当しても、別に心にも掛らぬが、丸々一日と一緒に居ない、アノ園枝は何だか気に掛って堪(た)えられない。」
と、呟(つぶや)き呟き馬車に乗り、屋敷を指して引き上げた。

 茲(ここ)に又、西部某街の一酒店で酒酌みながら、密密(ひそひそ)と打ち語らう両人の若紳士がある。一人は常磐男爵に勘当せられた彼の永谷礼吉で、今一人はその親友で、皮林育堂と云う者である。

 抑々(そもそ)もこの人の身の上を尋ねると、一年前に医学校を卒業した外科医者であるが、資本の無いためか、将(はた)また時節の到らない為か、未だ其の業を開かず、一人の母と共に、町外れに非常に侘(わび)しく住み、僅かに医学雑誌への寄稿家となって、母を養う丈の報酬を得、其の外は常に化学の試験に身を委ねると云って、多く世間に顔を出さないでいる。

 唯彼の永谷礼吉とは或る撞球場(たまつきば)で親しくなり、意気相投ずると云う者か、その後幾度と無く手を携えて倶楽部などに行っていたが、不思議なことに、この人と永谷とが組む時は、骨牌(かるた)その他の賭け事勝負に、大抵勝ちを取るので、中には皮林を骨牌の詐欺師ではないかなどと怪しむ人も有るが、何様非常な才子で、永谷は万事に就き、この人の知恵を借りる事が多いので、是こそ手頃の相談相手と思い、この人とだけは離れないようにしている。

 この人の方でも、永谷に博打場などへ連れ行かれて、小遣い銭を作る始末なので、永谷とは分れる意は無い。
 今日は二人とも心浮き立たないと見え、非常に陰気で、話声さえ沈み勝ちに聞こえたが、やがて皮林は一思案浮んだ様に、
 「ナニそう心配する事は無いよ。見給え、僕の知恵ですっかり伯父の機嫌を直して遣る。」

 永「ダッテ君は僕の伯父を知らないじゃ無いか。」
 皮「サア、知らないから芝居が出来るのサ、知って居ては却って六つかしい。」
と云い、又暫し考えて、
 「併し唯一つ、心配なのは、君の伯父が若し、妻を迎えはしないかと云う心配だよ。妻を迎え、子でも出来れば、自然と君より其の妻子が可愛いから、たとえ機嫌が直った所で、常磐家の財産は君よりもその妻子に多く伝わる事になるよ。」

 永谷は言消して、
 「その心配は大丈夫だ。僕の伯父はもう五十に近い。今更妻など娶る者か。」
 皮「爾(そう)は行かない。五十に近い人でも、我々二十歳台の者と同じく、熱心な恋人となる例は幾等も有る。特に君の伯父は、子の様に育てた君を勘当して、当分は何と無く心が淋しいから、何の様な事をするか分らない。」

 永「爾(そう)だろうか。」
 皮「爾とも、僕は第一に之を恐れる。併し待ちたまえよ。僕に未だ工夫があるから。」
と云い、追々深く相談を始めようとする。
 この相談、何の方に向き、熟して行こうとするのだろうか。


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