巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune19

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.12

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            十九

 是を手始めとして、彼の皮林育堂は常磐男爵の従者西井密蔵に深く取り入り、男爵の振る舞いは大抵知る事となった。
 兎角するうち、一年半を経て、翌年の秋の初めとなった。男爵は牧島園枝嬢に告げた様に、直ちに欧州大陸へ旅行したが、旅の徒然に耐えかねてか、二年ほどと言って居た其の半ばも経ないうち、僅か三月ばかりにで帰って来た。

 それからは、常磐荘園を常の住居(すまい)とは定めたが、時々に倫敦(ロンドン)の邸に来た。来る度に彼の汀(みぎわ)夫人の音楽教授所に行って、牧島園枝嬢を訪ねない事はなかった。皮林育堂は是等の事を西井密蔵から洩れ聞いて、更に深くその様子を窺(うかが)うと、男爵が園枝嬢に手厚いことは並大抵ではなかった。

 訪い行く度に、或いは指輪、或いは襟飾りなど、非常に高価な品を求め、これを園枝嬢に贈り、更に足りないのではないかと思い煩(わずら)う様子は、尋常とは思われ無い。この次第を伝え聞いた甥、永谷礼吉の心配は並大抵ではなかった。皮林育堂を呼びだしては、
 「君が気永く待てと言うが、もう気永く待つ甲斐も無くなった。何うしても僕の伯父は、園枝とやら言う乞食娘を妻にするに違い無い。爾(そう)なれば、あの財産は必ず園枝とやらの物。僕の相続する見込みは断(たえ)て仕舞う。」
などと言っても、育堂は敢えて騒がず、

 「だから気永く僕に任せて置き給えと言うのだ。何でも君の伯父は余ほど園枝嬢を思い込んで居るのだから、婚礼はするに違い無い。止めたとしても、とても止まらない。併し、婚礼したところで財産を園枝嬢に渡さない様に邪魔すれば好いじゃ無いか。一年と経たない中に、その婚礼を後悔させる工夫は幾等も有る。君が真に勘当を許されて、常磐家の相続を仕度いならば、何にも言わずに僕に任せて置き給え。」
と一人呑み込んで承知するのは、彼れ日頃奸智に長けているだけに、何か思案が有るに違いない。

 そうは言っても、永谷の心配するのも無理は無い。実に男爵が園枝嬢を訪ねることは、益々繁くなるばかり。初めの中は、園枝を伊国(イタリア)の大音楽場に上せるなどと言って居たのが、末にはその事を忘れた様に、絶えて音楽場の事は言わなくなった。

 勿論取り締まり厳重な学校なので、その弟子を他の男子と差し向かいで逢わせるような事は全く無く、男爵が来る度に、必ず汀(みぎわ)夫人が立会いて面会させる定めなので、男爵は園枝に何の打ち解けた話もすることは出来ない。唯園枝の顔を見、唯園枝が音楽台に上って、唱うのを聞き、それで一時間ほど費やして帰るだけだが、心は親しさを増すばかりだった。

 園枝の方も、それでなくても男爵の大恩を、深く肝に銘じている上に、この様に来て、この様に屡々(しばしば)物を賜(たま)うその親切には、只管(ひたすら)に感謝し、男爵の為には身をも、命をも惜しまないとまで思う心は、何とやらその様子にも現われ、男爵に逢う間が心が最も晴れ渡って、最も嬉しい時であるかの様になって来た。

 汀夫人も流石に数多くの淑女を預かり、油断無く監督する身なので、早くも男爵の様子に心付き、或時、園枝に向い、
 「この頃は男爵が少しも伊国(イタリア)の音楽場へ、貴方を出すと云う事を仰(おっしゃ)らないが、何か貴方の後々に就いて、別に考えでも有るのでしょうか。」
と問うのに、園枝はこの問の意味さえ悟ることが出来なかった。唯怪しそうに、その涼しい目を見張って、

 「音楽場に出なければ、何うして私は世を送る事が出来ましょう。財産も何も無い身の上ですもの。」
と答えた。その様は宛(あたか)も、初め男爵から言い聞かされた音楽場を、生涯の我舞台と思い、少しも心をその外に動かさない様子だったので、汀夫人もその心が非常に清いのを感じた。

 しかしながら、男爵は何時までも園枝に音楽場とばかり思はせて置くのを好まず、園枝の入学から一年半を経た、園枝が最早や卒業も近くなった頃になり、平常(いつも)よりは、非常に礼儀を正した身の拵え(こしら)で、園枝に面会を求めた。

 園枝はこの時、教場に居て、面会を求める人があると聞くと、直ちに教師の許しを得て、毎(いつ)もの面会室を指して行った。その姿を如何にと見れば、まだ暑気の消え尽くさない頃のことなので、雪の様な白繻子の単衣に、黒い縁取りをした服を着け、飾り物と言っては、唯男爵から送られた、黄金の十字架をその首に垂れただけである。この上も無く淡白な粧(つく)りではあるが、其の姿に好く似合っているのは、一同の女生徒が皆羨ましそうに振り向くほどである。

 他々(ほかほか)の女生徒は面会人と聞けば、必ず先ず我が部屋に退き、身支度を改めて出て行くが、園枝ばかりは日頃の嗜(たしな)みが好く行届き、手は洗わなくても、指先に赤インクの沁(し)みた痕も無く、頭は朝の間に梳(くしけず)って、一筋の後れ毛も無い。殊(こと)にその衣服は何れを纏(まと)っても、天然に備わる姿に、その上の趣を加える事は出来ない。

 正しい行儀に襟も汚れない程なので、その儘(まま)で、面会室の戸を開くと、中には男爵が常より最真面目に、且つは又心配気に控えて居り、園枝の顔を見ると、
 「オオ、今日は見られる通り唯一人だ。実は大切な話があるので、汀夫人に毎(いつ)もの立会いを止めて貰った。」
と言った。立会う人を廃するほどの大切な話とは、一体何事だろうと園枝は色にこそ出さなかったが、先ず窃(ひそ)かに怪しんだ。


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