巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune21

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.14

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 二十一

 園枝は男爵に連れられて庭に出た。木々立ち込んで遠く浮世の声を遮(さえぎ)り、外から偸(ぬす)み見、偸み聞く人もいないので、真に思う同士、心を開いて言い交(かわ)すにはこの上無い幽境《俗世間を離れたもの静かな所》である。男爵は徐々(そろそろ)と樹々(きぎ)の間を歩みながら、充分に大事を取る言葉付きで、

 「実は園枝、今日ここに来るにあたっては、幾度(いくたび)と無く考え直し、若しかして、年にも恥じない事を云うと和女(そなた)に笑われはしないかと思い、自分で自分に意見を加え、何うか思い止(とど)まり度(た)いと思っても、止まる事が出来ず、火影(ほかげ)に引かれる夏蟲も同様な心から、非常に強い情に引かされ、この通りここへ来たが、もう胸に在る丈を言わずには帰られない。

 言う上は包みも飾もせず、心のままを言わなければならない。和女(そなた)も知って居る通り、初め和女を救ったのは唯慈悲と言う心一つで、何うか和女に世渡りの道を与えたいと、こう思ってした事だが、その時から心の中に、何んとやら自分でも理解が出来ない所があった。唯慈悲と云う丈なら、寝ても覚めても和女の事がこう気に掛る筈は無いと、独りで怪しく思ったけれど、自分から打ち消して、ナニその様な筈は無い。色々身に心配の有る折柄なので、心の加減が狂ったのだろう。少し旅行でもすれば自然と忘れるであろうと思い、一、二年と言う積もりで、大陸へ旅行に出たが、何の甲斐も無く、唯思いが募るばかり。

 後ろ髪でも引かれる様に、知らず知らず帰って来て、それからと云う者は、月に一度が二度となり、三度となり、和女の許へ訪ねて来ずには居られない始末。一時間か三十分、和女の顔を見、声を聞けば、和女が丁度音楽を聞く様に、その間だけホンに浮世の五月蝿さも忘れて仕舞う。別れて帰れば、火の消えた様な心地がして、身の上が暗(やみ)になったかと思われる。」

 ここまで言って来て、男爵は更にこの上を言って好いか、言わない方が好いか、判断に迷う様に声を止どめ、危ぶみ危ぶみ園枝の様子を見ると、園枝は半ば頭を垂れ、両の頬に薄く紅を潮するは紅葉を染めた庭の木の葉に夕日が照り添ふ反射だろうか、男爵は大事に大事を取るとは言え、この様を見ては酔うような心地で、

 「コレ、園枝、初めの中は和女(そなた)の顔、和女の声で大舞台に登れば、満場の見物がどれ程か喜ぶだろうと、唯それが嬉しかったが、追々に、和女を舞台に登すのが嫌になり、今では和女が誰にも彼にも一様に眺められる事になるかと思うと、腸(はらわた)を断たれる様だ。マアこうまで言えば、大概はもう分ったで有ろう。
 園枝、園枝、これ程まで思い込んだこの私を憫(あわ)れとはーーー、イヤ、この私に和女が愛想を尽かしはしないかと、私は唯それが苦労だ。」

 園枝は未だ充分に男爵の言葉の意を解す事が出来なかったが、今が今まで、命の親とばかり思い、天にも地にも唯一人と尊(うやま)っている男爵に、何うして愛想を尽かす様な事があるだろう。園枝は男爵が愛想と叫ぶその熱心な一言に驚いて、
 「エエ、エ、私が貴方に愛想を、エ、エ、勿体無い、その様な事を云えば罰が当ります。貴方は私の命の親、生涯の恩人では有りませんか。」

 男「オオ、恩人、恩人、そうだ、その恩人だけでは気が済まない。」
 園「エ」
 男「今はもう恩人とばかり言われて居たくは無い。コレ、園枝、私の心が未だ分らないか。和女に初めて逢った時から、次第に愛と言う心が萌(きざ)し、その後は唯募るばかり。今はもう愛の為に身を焦がし、愛の為にこの様な事も云う。園枝、是程の深い愛は和女の様な姿も心も立ち優れた女で無ければ、とても男の心に呼び起こす事は出来ない。

 コレこの愛は何時まで経っても断念(あきらめ)る外無いだろうか。それを知るのは唯和女(そなた)ばかり、和女の返事一つに、私の生涯は懸かって居る。サア、私のこの後の身の上を、自分でも愛想の尽きる浅ましい者にするのも、又は天下晴れての仕合わせな男にするのも、今はお前の心一つ、この愛に酬(むく)いて呉れるか、応とでも否とでも唯一言の返事をして、サア、園枝。」

と心の底まで打ち開いて返事を待つのは、どれほど切なる想いからか分らない。
 園枝は益々驚き、しばらくは何とも答えなかったが、頓(やが)て思い定めた様子で、顔を上げ、
 「私の愛を得れば貴方のお身が幸いになりましょうか。」
 男「幸い、オオそれこそ言葉には尽くせぬ程の幸いだ。」

 園枝は非常に静かに、
 「それでは私の愛は貴方のものです。ハイ、貴方に差し上げます。」
 男「何だと、私のもの、アノ和女(そなた)の愛、和女の心が私のもの、では本当に私を愛して呉れると云うのか。年も親子ほど違うこの私をーーー。」

 園「ハイ、心底から愛します。貴方ほどの親切な、又お心の広い方は昔の物の本にしか有りません。今の世でお目に掛ることさえ仕合わせだと思いますのに、その貴方を愛せないと云う者が何処に有りましょう。それに私は一方ならない御恩を受け、初めてお救い下さったその時から、お目に掛る度毎に、何うしてこの御恩を返せば好いかとそればかりが気になりまして、唯有り難い、有り難いと思う心が何時しか愛の心になりました。」

 男爵は狂気の様に喜んで、園枝の首に手を掛けて引き寄せて、
 「園枝、和女(そなた)は真にこの私を天にも地にも譬(たと)え様の無い、嬉しい身の上にして呉れた。この様な喜びはこの世の中には無い筈だ。若しや夢では有るまいか。覚めて再び味気無い世の中へ、唯独りで投げ出されはしないかと、本当に自分ながら疑う程だ。」
と云い、殆ど身も世も忘れた様だった。
 この喜びは何(いつ)の時まで続くことだろうか。


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