巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune38

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 1

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                三十八

 皮林育堂が、新夫人園枝の馬車に相乗りしたのは、非常に怪しい事だけれど、是れは勿論、園枝が招いたものでは無い。園枝を憎み男爵を嫉(ねた)んでいる、彼の倉濱小浪嬢が、益々園枝と男爵の中を割こうとしてした事だ。嬢は自分が日頃目指している、金満の息子を引き入れると、更に馬車の外に目を配り、群れ集う紳士の中に皮林の居るのを見て、猶予も無く呼び掛けて、

 「オヤ、皮林さん、貴方はこの辺の道案内や名所古跡に詳しいから、サア、茲(ここ)へ相乗りして、道々新夫人と私に説き聞かせて下さいな。」
と云った。皮林は前からこの様な事があるだろうと、小浪嬢の心を見破り、嬢にはそれと悟らせずに、嬢を自分の意の儘(まま)に、道具として使えると思い、茲(ここ)に及んでは、何の遠慮も無く、
 「では御免蒙ります。」
と群集を押し分け、この馬車に乗り、今日こそは日頃の企計(たくらみ)を益々熟せさせる折りと思い、殊更男爵を疑わせる様に振舞っているのだ。

 男爵はそうとは知らず、皮林の打解けた様子を見て、全く新夫人と、前からの約束がある為に、この様に相乗りした者と思い、嫉(ねた)ましさ悔しさに鞍壷を握り締め、己れ、不届き者め等、引き摺り降ろして、辛い目を見せ呉れようかと、心の中で焦り立ったが、客の手前、世間の手前、固(もと)より、その様な振る舞いが出来るはずも無い。

 仕方が無く、馬に乗り遥かに新夫人の馬車の後から、様子を睨み乍ら従って行くが、馬車の中の人はそうとは知らない。
 小浪嬢は、只管(ひたすら)彼の金満の年少紳士を、擒(とりこ)にしようと、秘術を尽くして笑い興じ、傍らなどは振りも向かないので、同じ馬車に乗り乍(ながら)も、皮林と新夫人は全く唯両個(ふたり)の差し向かいも同様で、傍(わき)から妨げられる恐れも無く、何事をか語り合い、時としては、皮林が殆ど許し難いまでに、その顔を新夫人の顔に差し付けて、細語(ささやき)する様子さえ見えた。

 男爵の邸(やしき)から、彼の遊山の場所である「迷いの壷」までは、三、四里の道のりで、二時間余を費やして、茲(ここ)に着いたが、見渡すと、早や前夜から世話人が用意した者と見え、其所此所(そこここ)に大小の天幕(テント)を張り、休み場があり、食事場があった。
 凡そ一里四方に渡り、或いは林を隔て、或いは流れを差し挟んで、八門の陣を敷いた様に、快楽(けらく)の用意を列ねて有った。

 園枝はその初めの所で馬車を降り、良人(おっと)男爵は如何(どう)しただろうと見回すと、男爵も同じく馬から降りて、馬丁(べっとう)にその馬を引き渡す所だったので、最早や必ず我が傍に来て、我が手を取り、何れかに連れて行って呉れるだろうと、男爵の方に向いて待つが、男爵は全く園枝が、心の変わり果てた者と見て、傍に寄るのさえ、忌まわしいと云う様に、直ぐに一方に馳せて行って、某貴族の老婦人に向い、

 「オオ、夫人、貴女と此処(ここ)の土を踏むのは、もう十四、五年目です。サア若い人同士楽しませて、貴女のお手は、私が引いて上げましょう。」
と云い、その老貴夫人を扶(たす)けて、彼方を指して去ろうとする。
 園枝はこれ程余所余所しく遇(あつか)われるのに耐えられず、

 「貴方、私も連れて行って下さい。」
と将に泣き縋(すが)る声を発し、良人(おっと)の傍に馳せ寄ろうとすると、男爵は燃える火をも消し止めるほどの、非常に冷淡な眼で、園枝を尻目に睨んだまま立ち去ってしまったので、唇まで出て来ていた園枝の言葉は、その儘(まま)絶望の溜息となって止んだ。
 アア、私は如何(どう)して良人(おっと)に、これ程までも冷遇せられるのだろうと、悲しくも有り、恨めしくも有り、その儘(まま)撞(どう)と倒れようとする有様を、早くも彼の皮林が見て取って、

 「サア、夫人、私が御案内致しましょう。」
と手を取った。
 園枝は茲(ここ)に至って、それが皮林であるか、将(は)たまた、他の紳士であるのかを、見分けることも出来なくなり、唯だよろめく自分を支え起こす杖と思い、其の手にひしと縋(すが)り附くと、遥かに離れた男爵は、嫉妬の本性油断無く、彼方からこの様子をも見て取った。

 人々は非常に楽しそうに木の間、草の上に様々の遊戯を催し、興に入って動揺(どよ)めき渡ったが、園枝独りは、男爵に疎(うと)まれる悲しさに、胸欝(むねふさ)がり、興も遊びも心に移らない。此方彼方の人々を、好い様に遇(あしら)いながら、今までの事を一々に考えて見るに、

 「良人に愛想を尽かされる様な過ちが、自分に有るとも思われず、過ちも無いのに疎(うと)むとは、さては、さては、この身の素性が非常に賎しいのを思い出し、婚礼した事を後悔しているのだろうか。初めは唯だ愛と慈悲とに引かされて、前後の考えも無く妻とはしたものの、多勢の客の中には、新夫人の身分はと聞く人も有る。謗(そし)る人も有る。

 それや是れやで夢が覚めた様に、急に昔の見る影も無い私の境涯などを考え合せ、私が辞退もせずに男爵の意に従った事を、身の程を知らない憎い女と、今は憎んでいるのだろうか。私は栄華に未練は無い。爾(そう)ならば爾(そう)だと、唯だ一言聞かされたならば、恨みもせず、嘆きもせず、綺麗に夫婦の縁を切り、立ち去る者を。少しの間でも、身を救われた大恩を思い、世の人の知らない所に、男爵の幸福を祈って世を終る者を、アア、良人(おっと)の愛を失って、この様なしうちを受けるより、街頭に餓え凍えた昔の境遇のほうが安楽である。」

などと、様々に思い廻らし、何時間過しただろう。又何人が何を為したのか総て知らず、夢の様に其所此所を彷徨(さまよ)っていた。
 折りしも忽ち耳を劈(つんざ)いて、聞こえて来る鐘の音に、早や食事の時刻と為ったのに気が付いて驚き、主婦(あるじ)の役目は捨てて置かれず、食事場と定めた大天幕(テント)の中に急いで行くと、良人男爵は愈々余所余所しい顔色で、客と共に一方に控えて居り、自分の傍らには園枝の近付くべき席も残して居ない。

 園枝は仕方なく、此方の一隅に座し、何事も無く食事を済ましたが、ややあって最早や婦人連一同に、茲(ここ)を立つべき合図を示す頃と思い、その席から立ちながら、男爵の方を見ると、不思議や男爵は何時の間に立ったのか、今まで座って居た所に、その姿が見えなかった。何か尋常(ただ)ならぬ訳が無ければ、男爵がこの様に一人で立ち去る筈は無いと、園枝は非常に怪しんで、先ずその胸を躍らせたが、是れは実に恐ろしい大悲劇の初めであった。



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