巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune48

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.11

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                四十八

 園枝の苦しみは何時間に及んだだろう。園枝自ら知らず。唯だ一夜の長さ、一年にも優(まさ)るかと思っただけ。そうは云え、長くても、明けない夜は無い。何時とも無く東天の色、漸く薄くなり、終には日の光さえ洩らすに至ったので、この苦しみの尽きるのも遠くはないと、更に元の儘(まま)の姿で待つと、九時頃になって、遥か彼方から番人と覚ぼしき一人の男、気も永く悠々と歩み近付くのを見る。

 是れこそ番人である。彼は日々この古塔に出張し、他から見物人が来る度に、幾何(いくら)かの賃を得て、塔の上下を見物させ、細くもその日を送る者で、朝は九時より早く、客の来る事は稀なので、九時に来て吊橋を懸け、夜は又九時より遅く来る人は無いので、九時に吊橋を降ろして帰り去ると云うことだ。

 皮林もこの者が来たのを見、最早や囚虜(とりこ)を放す可(べ)き時であると思ったか、立ち上がって、
 「サア、最(も)うご随意にお帰りなさい。」
と云う。彼も一夜寝ずの番は、それほど愉快ではなかったと見え、色青冷めて、眼凹(くぼ)み、頬骨さえも高く出たかと思われる程の有様である。
 社交界に愛嬌者として立てられる、彼、皮林育堂よりも、寧ろ生きた悪魔の相に似ていると言った方が好い。

 しかしながら園枝は、彼の方に振り向きもせず、彼の顔に目も注がず、況(ま)してや彼の言葉に、返事などは猶更ら発しない。汝(なんじ)如きに、指図を受けるのは汚らわしいと云う様に、唯だ独り、非常に静かに立ち上がり、傍らに在る帽子を取り上げて頂く様子は、全く眼中に皮林の姿は無く、皮林が茲(ここ)に在ることを忘れたかのようだ。

 一夜寝ぬ身に、朝風は非常に寒く応えたけれども、心の苦しみが非常に強い時は、身体の苦しみを顧(かえり)みる暇は無い。
 園枝は寒さを気にもせず、夜露を含んで重そうな其(そ)の外被(うわぎ)は濡れ衣の様に身に纏(まと)わり、気味悪い程であったが、園枝は之すら心に留めず、悠々と身の様を繕い、彼れ皮林を後に残し、昨夜来た道を辿(たど)って、非常に静かに石の階段を降り尽くすと、この時漸く入って来た彼の番人は、其の姿を見、打ち驚いて飛び退(しりぞ)き、又恐る恐る見直して、

 「オオ、御免下さい。貴婦人、私は幽霊が降りて来たかと思いました。」
 幽霊と思うのも無理は無い。薄い草色の長着は画(え)に描いた幽霊の着る白い服に似、顔の色は天姓の白い上に、夜来の苦しみに血色を失い、殆ど生きた人の色では無い。園枝は最早や驚きも怒りもしない静かな声で、
 「お前が此の塔の番人だろうね。」
 番「ハイ」
 園「昨夜釣り台を、お前が自分で降ろしたのかエ。」

 番人は何事を聞かれるかと怪しむ様に、
 「ハイ、自分で降ろして置いて帰りました。」
 園「其の時、塔の中に人が居る事は知らなかったかエ。」
 番「ハイ、それを知れば降ろす筈が有りません。昨夜は丁度隣村に市の立つ晩で、買い物の為、其の市場へ行き、毎(いつ)もよりは少し遅く、九時過ぎに茲(ここ)へ帰って来ましたが、今まで其の頃に見物の居る事は有りませんから、ハイ、貴婦人が居ようとは思わず、堀の外から吊橋を降ろして立ち去りました。何うかすると乞食が塔の縁の下に寝て居る事は有りますが、乞食は橋が降ろされても、夜の明けるまで平気ですから、私も心に留めません。貴婦人が中に居るだろうと、何して私が思いましょう。」

云う所、全く真実と聞こえるので、園枝は此の上を問おうともせず、
 「私は是から常磐荘まで帰るのだが、茲(ここ)から何方(どちら)へ行けば好い。」
 番「オオ、常磐荘とは大分遠い道程です。茲から四マイルほど行きますれば、エジントンと云う村が有りますから、其の所で馬車をお雇いなさるが宜しい。」
と言って指差して示したので、園枝は其の教えに従って立ち去ったが、歩み慣れない山の中で、四マイル(6.4km)の道は、園枝の足には容易な事では無い。

 幾度か踏み迷ったが、問う可き人も通らないので、其の度に引き返して、元の道に出るなどして、午後の一時に漸くエジントンの村に着いた。茲(ここ)で馬車を雇うにも、又少なからず時を過し、三時過ぎ、四時にならなければ、常磐荘へは着くことが出来ないだろうと思う頃、漸く此の村から出発した。

 常磐荘で良人(おっと)男爵は如何(どの)のような有様でいるのか、又園枝と男爵が、如何のような有様で顔を合わすことになるのか、予想もつかない。


次(四十九)へ



a:669 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花