巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune59

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.22

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 五十九

 旅商人に身を窶(やつ)す彼れ、皮林育堂の言葉を聞けば、彼が常磐男爵の命を絶ち、早く其の身代を永谷礼吉の物にしようと、決心した事は明白で、彼がこの様に姿を変え、忍び込んだのも、或いは其の恐るべき目的を、今夜の中に為し遂げる為なのかも知れない。若し男爵自身が詳しくこれ等の事を知ったら、如何ほどか自分が、皮林の計略に落ち、清き妻を去らせ、一旦勘当した甥永谷を、相続人に直した過ちを、悔いることだろう。

 悲しいことに、男爵は露ほどもこの様な恐ろしい企てが、我が身の廻りに行われつつ有る事を知らない。妻を去らせ、甥を許して、我が役目は是で済んだと思って居る。しかしながら、男爵は引き続く心の苦労に、今は殆ど客一同に顔を合わせる勇気は無い。

 一室に籠(こも)ったまま、客へは少し心持が優れない為、今夜会食することは出来ないとの旨を、従者に命じて断らせて置き、更に後の事などを考えて見るに、我が差し当たりの用事と云うのは、第一に去った妻園枝に対し、後々乞食をせずに世を渡る丈の手当てを定め与え、第二に永谷礼吉を相続人として、新たに遺言状を認(したた)める事に在る。

 此の二つは今夜の中に運ぶことが出来るので、その後は妻を偸(ぬす)んだ彼れ、皮林育堂に此の仇を復するに有る。千百年来、唯の一度さえも人に笑われた事の無い我が家に、大の恥辱を蒙(こうむ)らせたのは彼なので、彼の命を殺し、彼の罪を懲らしめなければ、我が家の恥辱を雪(そそ)ぐ時は無く、我が恨みの癒(い)える時は無い。我が生涯は唯だ復讐の為に費やそう。

 この様に思い定めたので、第一に妻の処分から行おうと、日暮れになって、妻の居間へと尋ねて行くと、一方の窓の下に、待婢(こしもと)が唯だ独り編み物をしているだけ。妻園枝の姿は見えず、
 「園枝は何所に居る。」
と問うと、待婢(こしもと)は単に、
 「奥様は先程何所へかお出掛けに成りました。」

 男「ヤ、ヤ、先ほど何所へ。」
 侍「何所ともお申し置きに成りませんが、アノ学校に居らした頃、長く着古した旅服を出して呉れとの仰せでしたので、私が出してお上げ申しますと、夫(それ)を召して、直ぐお出掛けに成りました。」
 男爵は先ほど園枝が直ぐに立ち去ると云った事は記憶していたが、此方(こちら)から追い出す迄は、決して出て行かないだろうと思って居たので、この様に聞いて、驚かない訳には行かなかった。

 「夫(それ)にしても、何とか言い置いて行っただろう。」
 婢「イイエ、何とも仰(おっしゃ)り置きは有りませんが、お立ちの前に、暫(しば)し次の間で何か書き物を成さった様に見えました。書付でも置いて有るかも知れません。私が見て参りましょうか。」
 男「イヤ、それには及ばない。己(おれ)が自分で行って見て来るから。シタが其の立ち去ったのは何時頃だ。」

 婢「今から二時間程以前です。」
 二時間前に出てまだ帰らないとすると、既に何所まで行ったか分らない。特に常磐荘とヨークと云う地方の間を、毎夕定期に往復する賃馬車がある。其の馬車にも間に合う刻限だと思われる。男爵は異様な思いばかり胸に浮び、思案も充分に定まらない。

 「何所へ行ったか門前まで行って捜して来い。」
 二時間前に出た者が、門前を尋ねて分る筈があろうか。しかしながら待婢(こしもと)は、逆らいにもせず出て行ったので、後で男爵は次の間に入り、園枝が常に手紙など認(したた)める時に使う小卓(テーブル)の上を見ると、書置きとも見える一通の手紙が横たわっていた。其の上書きは擬(まが)う方なく、兼ねて我が目に見慣れた、園枝の筆なのを見て、男爵は何故か胸を刺されるホド痛く苦しく感じたけれど、直ぐには読もうとはせず、
 「何れほど巧みに偽りを書き列ね、再び己(おれ)の心を動かさうと勉めて有るか、後で読めば分る事だ。」

と打ち呟(つぶや)き、其の儘(まま)部屋中を見回すと、華美に飾った部屋の中に、書籍、楽器を初め、園枝が日頃愛玩した品物はそのままだったが、愛玩したその人は既に見えない。開いた儘(まま)に横たわる楽譜の冊子は、美しい園枝の声で読み唱(うた)われるのを待つ様で、蓋(ふた)を開いたピアノの台は細い指に撫でられる事が何故に遅いのかと恨むようであった。

 男爵は夫是(それこれ)を見廻わして、殆ど断腸の思いだったが我慢して、
 「イヤイヤ、此の部屋は、昔から常磐家代々の男爵夫人が居間にして暮らした部屋だ。此の部屋を根性の腐った女に涜(けが)されて堪(たま)る者か。」
呟(つぶや)いたが、心は更に穏やかではない。

 「シタが園枝は何処へ行って、何をして居る。イヤ情夫の許へ逃げて行ったのだ。この様な家をも財産をも、唯一人の情夫に見替えたからには、きっと情夫は有難い事に思い、園枝を天にも地にも無い様に愛するだらう。忌々(いまいま)しい奴だ。併し見て居ろ、その様な不義の快楽が何時まで続くか。暫(しば)らくは世間から隠れて居るだろうが、其の居所が分り次第、己(おれ)から決闘を申し込む。己れの目が見える中なら、兼ねて覚えの此の腕で、唯一発に射殺して呉れる。」
などと、恨みが益々募るのも、無理はないと云うべきだろう。

 この様にして居るうちに、先の待婢(こしもと)が帰って来て、夫人の姿は何処にも見えないのを報告したので、男爵は漸(ようや)く心を取り直し、自分には、未だ新しい遺言を認めなければならない、大切な用事がある事を思い出し、再び我が書斎へと退くと、茲(ここ)には従者が早や灯硝(ランプ)を持って来て、机の前に燈(とも)して有った。

 男爵は一方の抽斗(ひきだし)から、今までの遺言、其の他の書類を取り出し、考えては読み、読んでは又考えるなど、殆ど余念無い有様だったが、此の時窓の外から、非常に熱心に覗き込む人の顔が有った。何処から忍び来たのかは知らないが、是こそ皮林育堂が化けた、彼の旅商人の顔である。

 若し男爵が顔を上げて、此の顔を見る事が有っても、それが皮林育堂である事を悟る事は出来なかっただろう。
 彼れ悪人め。茲(ここ)に寄って来て、窺(のぞ)き見して、何事を為そうとするのかは分らない。


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