巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune6

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.10.30

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                   六

 ああ、立田丸の船長立田は唯一人親友に逢おうとして、遥々帰って来た甲斐も無く、悪人の手に掛って恐ろしい魔窟に落ちた。
 立田の身の上を気遣って、その夜一夜を寝ずに明かした少女園枝の親切さえ、何の功も無く終わったことは、どうにも仕方が無い成り行きであったのだ。

 ここに船長立田の逢おうとした、彼の第一立田の船長心得横山と云う者は其の翌日、約束の通り水夫倶楽部の酒店に入って来た。その姿はどのようだと問えば、彼の立田とは全く違い、船乗りには有るはずがないほどの小振りな男で、唯其の顔の日に焼けて黒い所だけは、海上の人かと思われるが、其の他は総て、荒仕事には耐える事が出来そうも無いような、神経質の人物のようだった。

 船長立田が、早く彼の正直な顔を見たいと焦がれたのも道理、彼の顔は実に正直の雛形である。心に思う事、悉(ことごと)く面に表れ、生涯嘘と云う者を吐(つ)く事が出来きないだろうと思われる程、読み易い目付き、口付きをしていて、然もその間に一種の侵(おか)し難い熱心の色を帯びている。

 彼は小足に一寸一寸(ちょこちょこ)と歩んで来て、先ず店先の様子を見、殆ど嬉しさに耐えられない様に、
 「ア、茲(ここ)だ、茲だ。約束の日より五日遅れたから、船長がさぞ俺を待って居るだろうなア。」
と独語ち、虚呂虚呂(きょろきょろ)と見回して、店に入り、忙しく四方に眼を配ったが、船長の姿が見えなかったので、又怪しんで外に出て、再び店先の看板を打ち眺め、

 [矢張(やっぱ)り茲(ここ)だ。この店だ。」
と言いながら、又歩み入ったが、腰も降ろさず先ず主人の傍に行き、
 「立田丸の船長は何所へ行かれた。先日からこの横山長作を待って居るはずだが。」
と問う。
 先に船長立田を世辞たらたらに迎えたこの店の主人は、昨夜立田を古松の家に送って行き、今日は何時の間に帰ったのか、常の様に店の事務を取って居たが、船長立田に振り播(ま)いた、その世辞は全く消え、この横山には殆ど振り向きさえもせず、

 「その様な事を仰っても分かりません。船長と言われる人は毎月何人もこの店へ来ますから。」
と余所余所(よそよそ)しく言い放った。横山は驚きこそすれ、少しも怯(ひる)まず、
 「船長は何人来ても、第二立田丸の船長立田は唯一人しか無い筈だ。ソレ先日俺がこの店へ船長に宛てた手紙を寄越して置いたから、何でもこの月の初めに茲(ここ)へ来て、其の手紙を受け取り、今日まで、この横山長作を、待って居るに違いない。」

 主人はまだ知ら無い顔で、
 「一向にその様な事は覚えていませんよ。」
と取り合う景色も無い。
 この時、店に居合わせた客の一人は、船乗りだけに、心も非常に打ち解けた質と見え、からからと打ち笑い、
 「茲(ここ)の主人の物忘れにも驚くよ。ソレ先夜俺が茲(ここ)に居る時、船長立田と云う人が遣って来て、お前から何か手紙を受け取って居たじゃ無いか。爾(そう)してアノ園枝に目を付けて、お前にし切りと園枝の事を聞いて居たのは、俺が見て知って居るよ。」

 之には主人も知らない顔を続ける事が出来ず、忽(たちま)ち思い出した様に、
 「アア、分かりました。分かりました。アノ人ですか。アノ人なら爾(そう)です。貴方の手紙を見て、大層失望の様子でしたが、その夜と翌日はこの家で泊まり、それから何所かへ立ち去りました。荷物も何もこの家には残しては有りませんから、何時また来るか私には分かりません。」
と云い、昨夜己(おのれ)が誘って、古松の家に行った事は全く忘れたような素振りだ。

 横山は少し考え、
 「俺の手紙を見たと言うのか。」
 主「ハイ、貴方の手紙か誰の手紙かは知りませんが、茲(ここ)へ来て居た手紙を私から渡しました。」
 横「その手紙の表書きには、水夫倶楽部留め置きで、第二立田丸船長立田様とあって、爾(そう)して歴山(アレキサンドル)港の消印があっただろう。」
 主「詳しくは知りませんが、何でもその様な事だったと思います。」

 横「ハテな、其の手紙を見たなら、俺を待って居なければならない筈だが。」
と云い、更に様々の事を尋ねたけれど、主人はその外の事は少しも知らないと答えるばかり。横山は更に、たった今、主人の物忘れを笑った船乗りに向って聞いたが、之とても、今云った事の外は何事も知らなかったが、唯船長立田が少女園枝を見る様子が、余程熱心に見えた事を繰り返して語ったので、横山はその事を心に留めたが、外に為すすべがなかったので、今にも来るかも知れないと思い、日の暮れるまで待って居たが、船長は音沙汰無かった。

 若し、その少女園枝とやら云う者に聞けば、何か仔細が分かるかも知れないと、夜の更けるまで園枝の来るのを待って居たが、如何(どう)したのか、この夜は遂に園枝も来なかった。仕方が無くて、この店に一夜を明かし、翌朝は最早心配に耐えられなかったので、主人に聞いて少女園枝の住居である彼の古松の家を尋ねて行ったが、家中全く留守と見え、戸を閉めた儘(まま)だったので、更に近隣の人に尋ねてみると、園枝と云う者、父の手荒さに耐えられず、昨夜老楽師と共に父の家から逃げ去って、行方が知れず、今朝早く、古松が血眼になって、この辺りまで尋ねて来たとの事だった。

 唯一人の手掛かりと思った園枝まで失踪したとは、能々(よくよく)運の悪るい事かなと、横山は非常に失望し、再び水夫倶楽部を指し引き上げて来るその道で、或る警察署の前に溺死人の張り出しが有るのを見た。
 横山は若しやと思い、署内に入って、その死骸の一見を乞うと、これは如何した事か、紛(まぎ)れもなく、船長立田の死骸であった。


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