巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune68

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.31

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 六十八

 園枝と云う名を聞くと、彼横山長作は非常に打ち驚き、そして忽(たちま)ち何事をか思い出して、自ら怪しむ様に、婦人の顔をつくづくと眺め始めたが、眺めるに従って、彼は愈々(いよいよ)深く心を動かし、其の顔は自ずから暗く暗く曇って来て、果ては殆ど婦人に食い附くかと疑われるほど、恐ろしく顰(しか)めた。アア彼は何が為園枝の名に驚き、また何が為に園枝の顔を怪しむのだろう。

 頓(やが)て彼は傍らに振り向いて、最前開いて居た、彼の厚い日記帳を遽(あわただ)しく繰り返して、非常に細かに何事をか記(しる)してある所を開き、口の中で読み始めた。
 婦人は彼の振る舞いを少しも理解できず、又彼の読む日記帳に何事が記して有るのかを、窺(うかが)い知ることは出来なかった。
 彼は己の身を日記帳と婦人の間に置き、宛も婦人の見るのを防ぐ様にして読んでいたからだ。

 若し此の婦人が、此の日記帳の文字を窺(うかが)い読んだなら、必ずや此の所に入って来た事を後悔し、逃げ去ろうと思うほどだっただろう。其の文句の一端を茲(ここ)に記せば、初めに、
 「船長立田殺害に付き疑う可き人物」
と題し様々の事を書き、次に、
 「古松の娘園枝とその人相」
と記して、

 「余は様々に園枝の写真を尋ねたけれど手に入らず。恐らくは此の時迄、写真などは写した事は無かったのだろう。止むを得ず、同人を見た人々に、其の人相を問合わすと、悪人の娘には珍しい程の美人で、実に絶世の美貌を備えて居たとは、何人も異口同音に云う所である。多分は南方暖国の産と見え、伊国(イタリア)の婦人によく有る様な目鼻立ちで、充分な愛嬌の中に、又充分の品位がある。しかしながら、笑ましく楽しそうな美しさではない。寧ろ悲しそうに沈んだ美しさである。

 其の身の振る舞いは、優(しと)やかにして淑女の様で、又気位高くして、堅意地なところがあるとの説である。考えてみるに、此の園枝の美貌で船長立田を迷わせ、古松と園枝の住む家に誘って行き、酒に酔わせて殺した者に違いない。古松の行方を探るよりも、此の園枝を探ることの方が容易だろう。園枝は古松とは違い、何処に行っても、人の目に付く程の美人だからである。更に又、園枝は歌謡(うたうた)うのに巧みであるとの事である。多分は音楽社会に身を寄せる者と見て、諸種の興行場を探るのが近道に違いない。」
などと記してあった。

 横山は読み終わって、茲(ここ)に記した古松の娘園枝と、我が目の前に現れた、牧島園枝と称する此の婦人と、人相が合致するのを見て、非常に光れる其の眼を、益々光らせ、独り満足そうに打ち笑ったが、ややあって其の笑みを押し隠し、静かに婦人の方に向かい、
 「貴女は只今、追々職業に有り就けば、私への報酬も出来る様に仰(おっしゃ)ったが、職業に有り付く見込みが有りますか。」

 婦「見込みと云う程でも有りませんが、何うしても職業を求めなければ成らない身の上です。」
 横「シテ何の職業です。」
 婦「ハイ、音楽です。」
 横「音楽の職業とは随分難しい仕事で、生半かな稽古では、容易に雇う人も有りませんが、貴女は幼い頃から。」
 婦「ハイ、幼い頃から歌を謡(うた)いまして、其の後一通りの修業は致しました。」

 さてはこれこそと横山は又も眼を光らせ、更に益々深く問いただそうとする折りしも、先程此の婦人を案内した取次ぎの男、一通の手紙を持ち、急(いそ)がしく入って来て、
 「今之を配達して来ましたが、至急用と記して有りますから、直ぐに茲(ここ)へ持って来ました。」
と云い、横山に手渡して退いた。

 横山は上封の文字で、既に其の捨て置き難いのを見て取ったのか、心配そうに封を切って読み下し、
 「何事が起こったのか、兎に角此の命令には背かれない。」
と打ち呟(つぶや)き、又暫(しば)し考えた末、婦人を此の室に待たせて置き、其の身は次の間に出て、今来た取次ぎの男を呼び、重々しそうに声を潜め、

 「己(おれ)は今夜、馬車で直ぐ田舎へ出張しなければならないことになった。遅くとも三、四日経てば帰るだろうから、その留守中、厳しく次の間の婦人を見張って貰わなければならない。」
 取次「アノ婦人の後を尾行するのですか。」
 横「爾(そう)だ。アレは非常に旧悪のある恐るべき婦人だから、何時捕縛しなければならない事になるも知れない。

 己(おれ)が長年探して居るのはアノ婦人だ。今己(おれ)を尋ねて来たのは天の賜(たまもの)、直ぐにも何としたいけれど、今は馬車の時刻が迫り、その様な手続きをしている暇が無い。貴様にアノ婦人を託して置くから、決して見失なわない様に、世界の果てまででも尾(つ)けて行け。今若し見失っては、何時また尋ね出す当ても無い。」

 この様に言い付けて、横山は再び婦人の前に帰り、
 「イヤ夫人、貴女のお頼みは充分に私が引き受け、及ぶ丈の力を尽くしますが、生憎(あいにく)今は、或る所から至急の命令を受けて、直ぐに田舎へ出張する事と成りましたから、残念ながら貴女の事件を、詳しく聞いて居られません。多分は三、四日の中には帰るだろうと思いますから、その節に再びお出で願います。」

 婦人は、我が身が何の様に目を付けられているのかを、知る由も無く、此の言葉を全くの誠と思い、
 「ハイ、三、四日、夫(それ)では今日から五日目に、又上がりましょう。実に私の身に取っては、命よりもっと大事な事柄ですから、何分宜しくお願い申します。」
と云い、立ち上がって去ろうする。

 横「アア一寸お住居を伺って置きましょう。」
 婦「先刻倫敦(ロンドン)に着いたばかりで、未だ住居は定まりません。次に来た時申し上げます。」
 これで婦人は立ち去ったが、其の身の背後に、見え隠れに尾(つ)けて来る人が有るとは、夢にも思って居なかったのに違いない。

 この様にして婦人が立ち去った後に、横山は早々に仕度を調(ととの)え、
 「アア常磐荘園とは意外な所へ招かれる事だ。斯(こ)う云う中にも、馬車に乗り後(おく)れなければ好いが。」
と云い、急(いそ)がわしそうに出張して行った。


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