巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune73

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.5

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 七十三

 人の心ほど迷い易く、変わり易いものはない。若し男爵が、園枝の日頃の振る舞いが、如何ほど優しく、其の心掛けは、如何ほど美しかったかを思い廻せば、是ほどまでに園枝を疑い、是ほどまでに、園枝を憎む事は無い筈なのに、今は唯様々の事情に迷わされ、其の優しかったことも、美しかったことも、総て男爵を欺く為の企計(たくらみ)であり、偽りであったと思い、益々憎しみが募るばかりだった。

 横山長作の方も、初めて牧島園枝と称する婦人が、我が許に尋ねて来て、悪人の企計(たくらみ)に罹(かか)って、無実の罪に沈んだ一婦人を、救ってくれと請い願った、其の言葉に如何ほど真情が籠っているかを考え起せば、彼の婦人に、何の罪も無い事を察する事は、難かしい事ではなかったのに、彼は幾年の昔から、園枝の名前を耳に蓄え、此の女こそ船長立田を欺いて、迷わせた毒婦であると思い込み、唯恨みの一念を以って捜して居たので、園枝の名を聞くやいなや、外の事は思い廻す暇も無く、園枝の言葉が、如何ほど誠しやかであっても耳には入らず、只管(ひたすら)に憎い敵が我が手に落ちた事を打ち喜び、果ては此の婦人が、若し其の身に罪があったら、何の為に、故々(わざわざ)探偵人を尋ねて来ることが有るだろうかと云う事まで、打ち忘れていた。

 凡(すべ)て探偵を頼もうとするのは、自ら悪事働いた人ではなくて、必ず他人の悪事に罹(かか)った人で有る事は非常に明白な道理であるけれども、横山は探偵の身として、此の道理すら思い出す事ができなかった。

 園枝が情夫を作ったと云い、此の家の財産を奪おうと企計(たくら)んだと云い、男爵に毒を盛ったと云う言葉は、一々明白な事実の様に其の心に染み入り、最後に自分の主人とも言うべき、小部石大佐が、其の毒薬に罹(かか)ったと云うのに至って、彼は宛(あたか)も荒馬に鞭を当てた様に騒ぎ初め、園枝を法廷に引き出し、其の罪を発(あば)こうとする一念となった。

 「いや、是が若し世間へ洩れない前ならば、私は何の様な事をしても園枝の不埒(ふらち)を包み隠し、成る丈此の常磐家が、人の口端に掛からない様にするけれど、丁度此の屋敷へ、四方の客が集まって居る際に出来たことなので、園枝の不埒は、既に交際社会へ知れ渡ってしまった。多分、もう法廷まで知られたであらう。一週間と経たないうちに、仏蘭西(フランス)へまで響き渡るに違いない。

 ここまで人に知られた上で、何うして其の儘(まま)に、捨てて置かれよう。茲(ここ)で明らかにしなければ、常磐男爵は妻に不義をせられて、夫(それ)を罰する気力も無いのか、大事な親友を自分の妻に毒害せられ、其の親友の為、仇を復する義理をも知らないのか、去った夫人をそれほどまでに曲庇(かば)うのは、まだ未練が捨て切れないのではないかと、この様に笑われることは確実だ。

 こうなっては、此の私は生きて世間へ顔向けする事も出来ない。何うかお前の言う通り、アノ園枝めを、間逆(まさか)に、首切り台に引き上げると云うまでには行かなくても、早速捕えて、法廷に出して貰おう。夫(それ)にしても、園枝の居所が分るだらうか。何でも当分は、深く身を潜めて居るに違い無いが。」

 横山は嬉しそうに、
 「男爵、其の園枝は、既に私の手の中の捕えてあるのも同様です。居所が明らかに分かっています。と申しても、私の力では無く、全く天が此の毒婦の罪を憎み、私の手の中へ投げ込んで呉れたのです。明日私がロンドンへ立ち返れば、其の夜の中に捕縛します。」

 男「オオ、其れは有難い。」
っと男爵は喜んだが、心に又一種の恐れを持たないわけにはいかなかった。
 毒婦園枝は、唯我を欺いただけでは無く、我が妻となる前に、二度まで人殺しの大罪に連類せるかと思うと、其の悪事まで、法廷で発(あば)き立てられ、自分は、この様な大罪人を妻にした不名誉に、又世間から此の上にも笑われ、恥かしめられはしないかと、茲(ここ)に至って、殆ど心を平静に保つ事は出来なかった。

 又言葉を柔(やわ)らげて、
 「だけれど、私と婚礼する其の以前に在った園枝の罪は、もう発(あば)かずに置いては貰えないだろうか。」
と云うと、横山は皆まで聞かず、
 「男爵、其のご心配は無益です。良人(おっと)を殺そうと云う程の毒婦ですもの、其の前に人殺しの罪が有る位は当然です。前の罪を隠しては、後の罪が証明し難い事になります。」
 男「でも夫(それ)では余り私が、乞食女に騙され過ぎたように見えてーーーー。」

 横「御尤もでは有りますが、夫(それ)こそ五十歩百歩です。園枝を法廷に引き出す上は、有りたけの悪事を残らず発(あば)くのがかえって男らしく、目の有る人は結局貴方の磊落(らいらく)な所に感心します。」
 男爵はまだ何となく此の言葉に服し兼ねる所も有ったが、夫(そ)れもそうかと思い直し、是から更に幾時間か相談の上、万事を総て横山長作に打ち任せた。

 長作は、この様に手筈が定まった上は、此の夜の中に倫敦(ロンドン)に引き返し、一刻も早く園枝を捕縛する事にしようと云って、此の屋敷から出発するに臨み、まだ死人同様である小部石大佐に、暇を告げる為め、男爵と共に再び其の病室に入って行った。

 大佐は以前の儘(まま)の容体で、天上を眺めて寝台の上に横たはるのみだったが、其の気配から、何うやら横山長作の来た事丈は、感じて知っているように思われる。長作は非常に残念そうに、大佐の力無い寝姿を眺めた末、其の顔に己(おのれ)の顔を俯向け翳(かざ)して、

 「旦那様、横山長作です。貴方のお手紙を得て急いで参った長作です。私の顔が分りますか。此の声が聞こえませんか。」
 大佐は何の返事も無い。此の声が聞こえたのか、聞こえないのかすら、知る方法がないが、暫(しばら)くして、其の太い眼を動かした。

 長作は叫び声で、
 「オオ、有難い、私の声が通じたと見えて、此の顔をお眺めなさる。旦那様、私の声が聞こえるなら申し上げますが、もう御心配はいりません。貴方をこの様な全身不具者にした、毒害者が分りました。不義の為め、此の家を去った男爵の妻園枝です。」

 アア、此の語真に大佐の耳に入ったならば、飽くまで園枝夫人の清きを知り、夫(それ)が為に此の横山長作をまで呼び迎えた、大佐は如何ほどか立腹し、如何ほどか悔しく思う事だろう。きっと腹の中は、張り裂けるほどに辛らだろうが、大佐は泣く事も出来ず、叱ることも出来ない。其の悔しさ、其の腹立たしさを、外に現すことが出来ないのだ。

 横山は更に声を継ぎ、
 「旦那様、其の園枝と云う奴は、恐ろしい毒婦で、貴方の敵と云うばかりでなく、矢張り船長立田様の敵です。今は証拠も揃い、其の居る所も分かりましたから、直ぐに私が捕縛して、首切り台へ載せ、充分に仇を復して上げますから、ご安心なさい。」
と云うと、何の身動きもする事が出来ない大佐の目に、涙が殆ど泉の様に流れ出で、其の頬を伝い下った。横山も泣き声で、

 「オオ旦那様は嬉し泣きに泣いて御座る。オオ勿体ない、旦那様敵(かたき)は屹度(きっと)長作が取ります。」


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