巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune83

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.15

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十三

  
 園枝が歩み入ったのは、抑々(そもそ)も誰の家だろう。是こそ園枝が音楽の教えを受けた、汀(みぎわ)夫人の私塾である。園枝は、広い世界に良人(おっと)男爵の住居の外は、一軒さえも知る家は無い。知っているのは、唯男爵と婚礼する前、長く音楽を稽古した此の教授所があるだけだ。

 ただ教師と弟子という丈の縁故で、この様な場合に、一身の憂き辛きを訴える謂(いわ)れは無いにもせよ、外に何の寄る辺も無い今の園枝の身に取っては、汀夫人の外に又誰をか頼むことが出来ようか。況(ま)して園枝は一通りの弟子とは違い、此の学校から、直ちに常磐家に婚姻して入ったのだ。

 汀夫人が今何と思うかはは知らないが、婚礼前に在っては、殆ど園枝を娘分の様に見做(みな)し、常磐男爵の頼みによって、園枝の仕度までも夫人は手ずから調(ととの)えて得させたのだ。園枝が一夜の宿にも困り、茲(ここ)に尋ねて来たことは、強(あなが)ち理由が無い訳では無い。

 夫(それ)はさて置き、園枝が歩んで入り来るのを見るや、折り好く玄関に居合わせた取次ぎの女は、予(かね)てから園枝を知っていたので、非常に驚いて、園枝の一言の辞(ことば)も待たず、周章(あわて)て奥にに退いたが、暫(しばら)くして、其の女の知らせを聞いたのか、汀夫人自ら遽(あわただ)しく出て来て、且つ驚き且つ喜び、真情に溢れる声で、

 「オヤ園枝さん、イヤ常磐男爵夫人、何うしてマア今時分」
と云いながら、縋(すが)る様に園枝を抱き、
 「マア奥へ」
と連れて入った。
 園枝は、
 「イエ、もう常磐夫人でなく、貴女に夫(そ)れほど厚遇(もてな)される身分では有りません。」
と云おうとしたが、その言葉は咽喉から出て来ず、力もなく引き連れられ、洋灯(ランプ)の光輝く汀夫人の部屋に入ると、夫人は未だ余りの意外に、騒ぐ心を鎮める事が出来ないかのように、見張る眼に園枝の顔、園枝の姿を打ち眺めるばかりだったが、漸(ようや)く落ち着くに従って、男爵夫人に似合わない粗末な旅服が目に止まったか、我知らず声を放って、

 「オヤ先ア此の姿は」
と打ち叫んだ。園枝は茲(ここ)に至って漸(ようや)くに一語を発し、
 「ハイ、私はもう男爵夫人では有りません。」
と明らかに言い切る言葉も、心の悲しさを推し隠そうとする其の我慢に耐える事が出来ず、声が震えて十分には聞き取れない。しかしながら、汀夫人は此の一語の言い方だけで、尋常(ただごと)ではないと見て取ったので、忽(たちま)ち慰め問う非常に親切な声を発し、
 
 「男爵夫人、イヤもう男爵夫人でないと言うならば、矢張り昔の園枝さん、何の様な事か知らないが、和女(そなた)の様子は、唯事とは思われません。女の身として良人(おっと)を持てば、悲しい思いは有勝ちの事、身に余る苦労が有って、私を尋ねて来て呉れたのなら、私も有難い。和女(そなた)とは母子も同様に思って居る仲、詳しく聞けば又相談の仕様も有るでしょう。気兼ねをせずに何もかも私にお言い、及ぶ丈は力も尽くし相談相手にもなるだろうから。」

と我が子を労わる様に云われ、園枝は益々我が身の儚(はかな)さを思い起し、何も彼も云おうとして、容易には云う事が出来なかった。却(かえ)って胸一杯に悲しさが欝(ふさ)がって、
 「夫人、本当に私は浅ましい有様になりました。」
と漏らしただけで、忽(たちま)ち、抑(おさ)えようとして抑える事が出来ずに泣き声を発し、ワッと夫人の前に伏し俯向(うつむ)いた。

 今まで良人(おっと)男爵の前は勿論、他人の見る所で、涙一露滴(こぼ)した事のない、強情一徹の女であるが、思っていたよりも親切な汀夫人の労わる言葉に、其の心が弛(ゆる)むと共に、耐えに耐えていた幾日幾夜の悲しさが、一時に発したるものと知られる。

 夫人は園枝の背を撫で、慰めようと試みたけれど、唯、よよと泣き入るばかり。容易には止むとも見えなかったので、
 「オオ、和女(そなた)が是ほど泣くのを見れば、今まで悲しさが積もり積もっても、四方(あたり)の気兼ねに、泣くにも泣かれず、我慢していたと見える、泣くだけ泣けば自然に神経も落ち着くというから、幸い茲(ここ)は誰も聞く人はない。安心して足るだけお泣き、爾(そう)して心が鎮(しず)まれば、其の時に又弛々(ゆるゆる)聞こう。」

 こう云って、涙に咽()むせぶ園枝の身を、其の儘(まま)ここに残して置き、夫人は此の部屋を立ち去ったが、頓(やが)て二十分間も経ったかと思う頃、何やら神経を推し鎮めるような飲み物と思われる一瓶を提げて入って来ると、夫人の云った事に違わず、園枝は充分涙を洩らした為、其の心も自ずから鎮まって来て、且つは自ずから気を取り直し、泰然と控えて居て、夫人の顔を見ると、面目無さそうに、

 「貴女の御親切の有難さに、思わず泣いて見苦しい姿を御目に掛けました。」
と侘び、更に決心した面持ちで、
 「けれど夫人、私はこの様に泣きましても、他人に顔の合わされない恥かしい事をして、出て来たのでは有りません。居るに居られない訳が有り、着のみ着の儘(まま)で男爵家を立ち去りましたが、其の訳は追って良く分りましょうが、今は貴女にも云う事が出来ません。貴女は其の訳を聞かず園枝に限り、恥じ入る様な振る舞いはない者とお信じなさって、当分私をお留め置き下さって、此の学校の女教師にでも、お使い下さいませんでしょうか。若しお疑いなさるならば、私は今直ぐに立ち去るだけです。」

 宛(あたか)も我が身の清きは、一点さえも人の疑うのを容(ゆる)さずと云う面持ちで頼み込むのに、汀夫人は憂世の憂きを味わい尽くした人なので、今問うのも無益と知り、
 「和女(そなた)の清い心は、顔を見ても分かって居る。聞かなくても誰が疑いましょう。唯此の家に客となって居るのは、却(かえ)って和女(そなた)が辛かろうから、宜(よろ)しい、助教師に雇いましょう。和女(そなた)ほどの良く出来る助教師なら、何人でも欲しい所だ。」

と非常に心易く引き受けたのは、一つには世間に良く有る夫婦喧嘩が高じて、出て来たもので、明日にも常磐男爵から迎えが来る事になるだろうと思った為に違いない。
 この様にして園枝は、幸いに雇い人会社の厄介となるに及ばず、汀夫人の許(もと)に留まる事となったが、此の翌々日に及び、何者とも知れない、胡散(うさん)臭い男が、此の家の前後の門を見張っているとの下女の言葉が汀夫人の耳に入ったが、夫人は何かの間違いだろうと聞き流していると、午後に到って、一枚の名刺を通じ、汀夫人に面会を求める者があった。

 名刺の表面は、
 「某警察の刑事探偵何某」
と記して有った。
 名誉非常に高い此の音楽学校に、刑事探偵が踏み込むとは、汀夫人の身に取っては、実に寝耳に水より、もっと驚くべき出来事に違いない。


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