巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune88

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.20

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十八

 園枝が古松を父に非(あら)ずと云い、実(まこと)の父は、外に有る様な気がすると云うのは、実に雲を掴む様な言葉なので、判事の疑うのも無理はない。判事はやや暫(しば)し園枝の顔を疑わしそうに眺めた末、
 「フム、貴女が古松の実の娘であろうが養女であろうが、夫(それ)は深く糺(ただ)すに及びません。兎に角、船長立田殺害の頃、其の家に居た事丈が分れば好いのです。夫から貴女は古松の家を出てから、自分で姓を改め、牧島園枝と称して居た様ですが。」

 園「ハイ、今でも人に聞かれれば、牧島園枝と答えて居ります。」
 判「古松園枝と云うべきを、あえて牧島園枝と云うのは何故です、何か身に悪事が有って、其の露見を恐れる為に、本姓や本名を捨て、偽名偽姓を用いるのは、幾等も有る例(ためし)です。貴女は元の古松園枝と云う事を、堅く隠して居る様ですが。」

 園「ハイ、古松と云う姓は、汚らわしく思いますから、私は其の家を出ると共に、其の姓を捨て、自分で牧島と変えました。」
 判「姓名は勝手に捨てたり変えたりする事は出来ません。」
 園「ハイ、夫れは爾(そう)でしょうが、私は古松と云うのを、自分の本姓とは思いません。悪人古松が無理に私へ押し付けた姓です。自分の姓でない者を捨てるのは構わないだろうと思いました。」

 明白な弁解に判事は少し考えて、
 「フム、古松は自分の姓で無いから捨てたとすれば、牧島と云うのも自分の姓ではないでしょう。自分の姓でないのに何故に牧島を選びました。」
 園枝は少しも淀まず、

 「ハイ、牧島と云うのは、自分の姓でないかも知れませんが、何故か私の口に呼び易く、又何となく心に昵(なじ)んで居る様に思います。物心を覚えた頃から、何か牧島と云う呼び声が耳の底に残って居る様な気がして、若しも私の実の父が牧島何某と云う人では有るまいか、私が幼い頃、お前は牧島の娘だなどと、云い聞かされていたのではないだろうかと、この様に自分で疑い、それが為に古松の姓を捨て、直ぐに牧島と付けました。」

 判「フム、牧島と云うのは、伊国(イタリア)から出た姓だ。」
 園「ハイ、私が古松に、『俺を父と呼べ。』などと折檻(せっかん)《懲らしめのため肉体に苦しみを与えること》せられましたのも、伊国の確か芙露蓮府(フロレンス)と云う所でした。五歳か六歳の頃ですけれど、私は其の土地に居た事を今でも微かに覚えて居ます。其の後、其の土地を立ち、諸所を経廻(へめぐ)った末、遂に英国へ参りました。」
 述べる所は、判事の耳に満更の作り事とも聞こえない。

 判「貴女は古松に養われる前の事は、少しも覚えていませんか。」
 園「ハイ、何分幼い頃の事ですから、どうも思い出しませんが、唯だ夢の様に、松の樹などが生えた、屋敷の景色を覚えて居ます。背後が山で、向うの方には海が見えて、船などの通るのを何所かで見たかと思い、今でも其の景色を心に浮かべて、独り考えて見ますと、何でも其処が自分が生まれて、三歳か四歳の頃まで育てられた場所ではないかと、懐かしい様に思います。」

 判「古松の外に、誰か貴女の幼い頃を知って居る者は、有りませんか。」
 園「唯一人有りましたが死にました。」
 判「夫(そ)れは誰です。」
 園「古松の許(もと)に居る頃、私に歌などを教えて呉れ、私と共に提琴(バイオリン)を弾いて、酒店などを廻って居た、目の見えない老人ですが、此の人は私が古松の家を出る時、一緒に抜け出しましたが、その後一月ほど経て、ヨークの或る町で老病の為、死にました。私は町役所へ願い、其の人を共同の墓場へ葬り、花などを手向けて居ましたから、其の墓場の有る所を好く知っています。」

 判「其の老人は、貴女が古松に養われる前の事は、知りませんか。」
 園「夫(それ)は知りません。私が古松と共に、芙露蓮府(フローレンス)の裏店の様な所に居ます頃、其の老人は道端の音楽師でしたが、窓の外から私の声を聞き、此の児は充分に音楽師になれると云い、入って来て、私に歌を教えて呉れましたのが初めで、その後は、古松も私に歌を仕込み、少しでも稼がせる気に成りまして、其の老人を家に留め置き、私に様々の事を教えさせました。勿論学校へも行きませんけれど、私は其の老人に読み書きなど一通りの事は習いました。」

 長々の身の上話も、若し其の中に何か手掛かりを見出すことが出来ないかと、判事は夫(それ)を頼みにして、茲(ここ)までは聞いたけれど、是と云う手掛かりも無かったので、更に新たな端緒を開き、
 「貴方は古松の家を出てから、その後古松に逢った事は有りませんか。」
 園「一度も有りません。」
 判「古松の今の居所は知っていますか。」
 園「知りません。」
 判「全く知りませんか。」
 園「ハイ、全く知りません。」

 判事は憐れみをを帯びた口調で、
 「此の事件は、本来古松に対する調査で、貴女は唯、共犯の嫌疑に止(とどま)ります。其の嫌疑も、貴女の言葉を聞いた丈では殆ど根も葉も無い程に思われますが、夫(それ)でも古松本人を捕えて調べれば、又何と云い立てますやら!」

 園「古松を調べたとしても、共犯でない私を、共犯だなどとは言い立てる筈は有りません。私の言い立ては、有った丈の事を残らず述べました。」
 判「夫(それ)にしても、古松の捕らわれる迄は、貴女を放免する事は出来ません。貴女が古松の居所を知らないのは、貴女の為に余程不利益です。古松が、何時までも捕らわれないかも知れませんから。」

 園「古松の捕らわれるまで、私は留置かれますか。」
 判「そうです。貴女の言い立ては前後が好く合って居ても、全く無証拠です。古松と口が合えば、初めて事実と認めますが、それまでは、事実とも事実でないとも、殆ど認めが附きません。それとも貴女が古松の居所を知って居れば、直ちに古松を捕えますから、極早く片が附きますが、是でも貴方は古松の居所を、知らないと言い張りますか。」
 園「どうも致し方有りません。古松が捕らわれない為、私が三年五年留め置かれようとも、知らない事は、言い立てようが有りません。」

 判事は別に聞き取る事も無いので、第一回の調べは、先ず是だけであることを言い渡し、園枝も此の調べ方が、思っていたより緩やかなのを見、此の問いならばと、やや安心して未決監に退いたが、其の身が留め置かれることになるとは思って居なかった。又此の嫌疑の外に、更に良人(おっと)男爵に対する毒殺未遂という、非常に恐ろしい嫌疑が掛けられているのも知らない。

 第二回の審問の後には、疑いも晴れ、放たれることになるだろうと、空頼みに頼んだのは、誠に気の毒なことだと、云わなければならない。



次 後編(八十九)へ



a:528 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花