巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune92

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.24

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 九十二

 皮林が古松を殺す外なしと、意を決して立ち上がった後の次第は、暫(しばら)く置き、茲(ここ)に園枝の第四回の取調べを記(しる)そう。
 園枝は三度まで受けた調べに、到底古松が捕らわれる迄は、放免せられる事は無いと諦め、自分の身の不幸を託(かこ)ちながら、辛い日夜を獄中に暮らし明かして居たが、幾日の後に及び、又も呼び出される事となったので、此の上幾度問われても、知っている丈は言い立て尽したので、この上何事を取り調べられるのだろうと、独り怪しみ乍(なが)ら、獄丁《牢役人》に連れられて判事の前に出ると、判事は今までより、一層重大な責任でも帯びた様に、胸中の秘を一点も洩らさない程の厳かな顔色で、

 「貴女は牧島園枝と名乗っているが、実は男爵常磐(ときわ)幹雄の夫人でしょう。」
 問われる事柄が、今迄と全く変わったので、園枝は益々異様な想いをして、
 「ハイ」、未だ表向きに、離縁の手続きを経ていませんから、常磐男爵夫人に相違有りませんが、良人(おっと)でない妻でないと云う決心で、其の家を出ましたからは、常磐の姓を名乗る事は心が許しません。矢張り唯の牧島園枝です。」

 判事は何やら書面を出し、其処此処(そこここ)と繰り返して黙読した末、
 「今迄貴女は、船長立田殺害に関係した嫌疑を以(も)って調べられましたが、此の度は、最も悲しむべき、重大な嫌疑を以って調べられなければなりません。」

 アア我が身に何の覚えもないのに、よくも引き続いて疑いが掛かる事だ。良人(おっと)の男爵に、不義者と疑われた覚えは有れ、法廷で調べられる様な罪は犯した覚えは無い。それに其の不義の事も、常磐荘を立ち去る時、老友小部石(コブストン)大佐が堅く引き受け、良人に対し、言い開いて遣ると云っていたので、たとえ良人の心が解けないにしても、夫(それ)が為に訴えられる筈は無いと、心は非常に丈夫であったが、何しろ引き続いて身に降り来る不幸に、日頃の健気な気象も折れないようにと努めはしたが、自ずから折れ挫(くじ)け、身の振り方も考えられない程の状況なので、宛(まる)で悪夢の中に徘徊(さまよ)う様に、唯アタフタとして、

 「其の疑いとは何の様な事でしょう。」
 判事は直ぐには説き明かさず、
 「先ず貴女が常磐家を去った其の時の事柄を、詳しく伺いましょう。」
 と云う。
 園枝は罪無き身なので何をか隠そう。男爵に不義の疑いを受け、言い開いても聞き入れられないため、自ら世に出で、其の疑いの本を糺(ただ)し、身の明かしを立てるために、着のみ着の儘(まま)出て来た事から、男爵との問答の様子まで、残らず語ると、判事は聞き終わって、

 「貴女は爾(そう)して常磐家を立ち去る時、男爵の常に用いる硝盃(コップ)の中へ、最も恐るべき毒薬を適(たら)し込んで置いたのでしょう。」
 園枝は余り意外な疑いに、かっと怒りを催(もよお)し、人を疑うにも程がある。我が身は他人の目に、それ程までに悪人に見えるのだろうか。この様な根も無い疑いに対し、弁解するのも汚らわしいと、心の中は火の様に燃え上がり、

 「おのれ意地悪な浮世の人々、自ずから防ぐ力もない、此の一女子を疑って、殺すなら殺せ、疑われて死ぬなら死ね。何時までも汚らわしい問いに答えて、益々この身を涜(けが)してなるものか。」
と、身を引き延ばして判事の前に決然と起(た)ち、堅く唇頭(くちびる)を引き締めて、一言の声も発せず、剣の刃に置く霜より、一層冷ややかに眼を光らせ、判事を目の下に見降した様は、外界の汚れに愛想を尽かし、雲の絶え間から叱り見降ろす、天津乙女も是程ではないと思われる許かりである。

 判事は園枝の心の中を知る事は出来ない。此の怪しい振る舞いに呆れ惑い、
 「此の女は発狂したか。」
と腹の中に呟(つぶや)いたが、若しも此のままに捨て置いたならば、園枝は判事をも法廷をも構わず、唯我が身の清いのを頼み、床を蹴って立ち去ろうとしたに違いない。

 立ち去ろうとしても、立ち去る事が出来る場所では無い。忽ち獄丁に捕らえられて、捻(ね)じ伏せられるだけの事であるが、園枝は余りの腹立たしさに、人間の掟をさえ打ち忘れ、早や立ち去ろうとして、片手にその裳(もすそ)を堅く握りしめ上げた。



次 後編(九十三)へ



a:538 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花