巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune94

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.26

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

             九十四

 園枝が獄中に有って、既に懐妊している女と分り、且つは病に罹(かか)って前後をも知らない程と為ったので、予審判事の調べも一時中止の形になり、音沙汰無し。若し園枝が充分に其の身の無罪を言い開き、彼のヤルボロー塔の事を始め、悪人皮林が恐ろしい企(たくら)みを以って、我が身に不義者の疑いを負わせた手順を順番を追って明らかにすれば、たとえ直ぐには、其の身の放免をされないまでも、裁判所は必ず皮林の居所を調べて彼を捕え、自然と大いに事の本末も分って行く筈であるが、病に心を失って、その様な事を言い立てることは出来ない。その筋の取調べは未だ皮林の身には及ばず、夫(それ)ばかりでなく、既に捜索中である彼の古松すら、まだ捕われないのは、園枝のためには、不幸の上の不幸と云える。

 皮林が古松を殺そうと決心して、立ち上がってから、幾日の後、彼の探偵横山長作は再び倫敦(ロンドン)から常磐荘に来て、男爵に逢って園枝の早速捕われた事を告げ、引き続き毒殺の罪迄、訴える手続きを取って居る事を語り、様々の打ち合わせを為して去り、其の後とても、彼は幾度となく常磐荘と倫敦の間を往復したが、彼の「田舎屋」の主人古松松三は、かつて皮林に向い、

 「探偵横山を恐れるけれども、汝は恐れない。」
と云った様に、この様に横山が屡々(しばしば)我が住居近くに来るのを見て、探り出だされる恐れがあるため、自ら用心したものか、店をば雇い人等に任せて置き、何れへか姿を隠し、皮林を威(おどか)した、その嘲笑(あざわら)う顔は此の近辺には見えなくなった。

 皮林も彼を殺す決心で、その後再び古松の家に泊まり込んだけれど、主人が見えないため、如何(どう)にも仕様がなく、手を空しくして引き上げたが、夫(それ)にしても、古松が何処に行ったのかを知るまでは、不安心の思いに耐えられなかった。且つは園枝が捕らわれたと有っては、園枝の口から何時疑いが、我が身に掛かって来るかも知れないので、一方には古松の消息を窺(うかが)い、又一方には自分の身の安全を図るため、暫し身を潜めるに越した事はないと思ったか、之も間も無く姿を隠し、火花を散らそうとしていた、両悪人の動きも、表面だけは先づ立ち消えた様になったが、果たして真実立ち消えと為り尽したか否かは、後になって知る事が出来るだろう。

 この様な間に、実に気の毒なのは常磐男爵である。一身一家の幸福は一時に消え、昨日まで天にも地にも無き程に思っていた、妻園枝は、我が身の限り無き恩愛に背いて、不義を働き、剰(あまつ)さえ我が身を毒殺しようと謀り、之が為この様な時、唯一人の相談相手と頼んだ、老友は死人同様の姿と為り、心の中の恨めしさ悔しさを訴えようにも訴える者が居ない。横山探偵の勧めで、園枝を法廷に引き出したのは、僅(わず)かに無念晴らしの一端とは云え、悲し云い事に、之がため不名誉の帰する所は我が身である。我が家である。それに園枝よりもっと憎い不義の片割れ、皮林育堂は何処に行ったのか姿も見えない。

 男爵、男爵と慕い来たって、集まった客人も、彼の二十歳よりも三十歳の方に近い倉濱小浪嬢の外は、一人も留まらず、皆用事に托して逃げ去ってしまった。笑語の声満ち渡って、人間の極楽園かと迄に羨(うらや)まれた、常磐荘は唯、陰気が満ち満ちて、物凄い程に静まり返り、口数多い下女下男まで、用事の外は言葉を発せず。夫(それ)も多くは細い声である。

 男爵は此の中に有って、世間の人が皆、背後から我を笑っている様な気がして、一刻も心の安きを得ることが出来ない。
 唯小浪嬢のみが、時々来て非常に親切に慰めて呉れるだけで、一人の言葉に気の晴れる様な場合ではない。独り書斎に引き籠ると、陰気益々陰気となり、其の身は自ずから地獄の底に沈んで行くかと疑われ、殆ど発狂もしようかとまでに思われるので、多くは小部石大佐の枕許に一日を暮らしているが、大佐は唯、天井を眺めるだけで、一語をも発せず、一手一足を動かすことも出来ない。

 死人の枕元で奉仕するのも同じ事である。寧ろ我が身が、毒を呑み、あの夜一思いに死んだならば、如何程か気楽だったのにと、詰まらぬ事まで思い廻し、一日一日を経る毎に、殆ど耐える事が出来ない迄に成って行ったので、遂に此の死人同様なる大佐を引き連れ、大陸に旅行しようと思い立ち、先ずその旨を医師に語ると、男爵の健康の為にも、大佐の病気の為にも、其の方が好いだろうとの事なので、更に大佐に向い、宛も聞き分ける事が出来る人に告げる様に、此の決心を告げた。

 「コレ、老友、私の今云った事が分かったか、分かって若し賛成ならば、眼を右へ動かして呉れ。若し不賛成ならば左へサ。賛成か、不賛成か。サア、お前が不賛成なら旅行をせず、今まで通り茲(ここ)に居るから。」
と云うと、此の語は大佐に通じたと見え、大佐の眼は漸(ようや)く右の方に動いた。男爵は自ずから涙を浮べ、

 「オオ、有り難い、私の云う事が通じたと見え、眼を右の方へ動かした。それでは賛成と見える。では、仕度が整い次第、出発する事にしよう。」
と云い、男爵は殆ど不幸ばかり打ち続いた英国へは、再び返って来ないだろうと云う程の決心を以って、早速旅行の仕度に取り掛かった。


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