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妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第一回
アア妾(わらは)は自ら思ってもわが身の恐ろしさに身震いする。心に罪ある者は自分の神経に襲われるとか。妾(わらは)は実に自分の神経に襲われている者だ。自分の身ながらも恐ろしい。アア妾(わらは)の罪、今死ぬ身の懺悔にもと妾(わらは)はここに我が罪を書き残すのだ。読者よ、罪の最も重いのは人殺しと聞く。妾(わらは)の罪は人殺しである。妾(わらは)は人を殺した。自ら手を下して殺したのだ。しかも妾(わらは)の夫である。しかも一人だけでなく二人までも。アア夫を二人持って二人とも殺すとは何と言う恐ろしい女だろう。
読者はご存知だと思うが、古池侯爵と言えばこの国第一の貴族である。妾(わらは)はその一女である。古池家の唯一人の令嬢である。妾(わらは)の家はこの国に並びの無い邸第(ていだい)《豪壮な家》で、高塀の外に何百年経ったか知れない古い池がある。広さは湖水のようで、深さはその底を知らない。この池にちなんで古池という家名が付いたと聞く。
妾(わらは)は十八歳の春までは罪も汚れもない乙女であった。父のほかに愛すべき人もなく、父の眼鏡にかなって妾(わらは)の夫にと定めた妾(わらは)の従弟の古山男爵は妾(わらは)は愛しもせず憎みもせず、淡いこと他人のようだった。
妾(わらは)一度夜会の席に出れば幾人もの紳士が先を争って共に踊りたいと請い、妾(わらは)の衣服、妾(わらは)の言葉は皆翌朝の新聞に書き立てられ、妾(わらは)が柔らかい帽子を戴けば十日を経ずして令嬢社会皆柔らかい帽子を戴き、妾(わらは)のなすことは総て時々の流行となり、妾(わらは)は社交界の女王と評された。
妾(わらは)が眼に媚を帯びて見つめる時は少年紳士皆心酔い魂蕩(とろ)け、たちまちに妾(わらは)の奴隷となってしまう。しかしながら妾(わらは)には悪い心は無い。妾(わらは)は少年紳士が妾(わらは)の目に照らされて朝日に逢う雪の如くなるのを気の毒に思い、誰の顔をも十分見つめないように遠慮していた。このようにして妾(わらは)は十八歳の春になった。ーアア、恐ろしいー
十八の春、妾(わらは)は風邪の心地がして臥せた。父は直ぐに前からの医者を迎えにやったが、その人は用事があって、急に故郷に帰ったとやらで、この頃急に開業した年若い医師村上達雄という人が来た。
(父)年は若いけれど、親切そうな男だから好かろうと思うが、直ぐにこれへ通そうか。
(妾)おや、年の若い人
(父)若くても親切で上手なら好いだろう。
(妾)だって若い人は私の手を取るとぶるぶる震えますもの。
と言ったが実にその言葉に違わず村上達雄は何気なく妾(わらは)の傍に腰を下ろし、何気なく挨拶を始めたが、フト妾(わらは)の顔を見上げるにおよんで、唯見とれるだけ、その眼を動かすことが出来ない。
妾(わらは)は気の毒になったので、
「私の顔は色でも悪いのですか。」
と問うと、村上は初めて正気に返ったように打ち驚いて、その眼を垂れたが又しばらくは上げることが出来ない。この間に十分心を取り直したものと察せられる。しかし、読者よ、村上が心を取り直し再び妾(わらは)を見上げた時はあたかも村上が初めに妾(わらは)の眼にすくんだように、妾(わらは)は実に村上の眼にすくんだ。
読者よ、村上の眼は清というか、涼しいというか、今まで妾(わらは)の見たことの無い目付きだった。威あり愛あり妾(わらは)は全くその眼に酔った。今まで男ほど心に意気地の無い者はないと思っていたが、今はわが身の意気地の無いのを知った。村上の目にすくんで心も体も動かないが、動かないながらも窮屈には思はず、唯なんと無くゆったりと打ち解けていた。
これは妾(わらは)の身に初めて愛情の染み渡るときだった。妾(わらは)はただこの人こそ天下に唯一人、妾(わらは)に勝る人であると思った。村上は診察し終わって父に向かい、
「大したことでは有りませんが、このお屋敷は健康に障(さわ)ります。第一にアノ古池を潰(つぶ)さなければなりません。数百年の溜まり水で水垢や藻の類が満ち満ちていますから、アレが為にこの辺りの空気が悪くなります。」
と言った。今まで誰一人として彼の古い池を褒(ほめ)ない者は居ないのに、この人唯一人父の威光をも恐れず古池を潰せと言うのを見ては、妾(わらは)は益々その心の優れて居るのに酔い来るばかり。
父も殊(こと)の外感心し、
「お前はこの世界に唯一人じゃ。今まで様々な医者も呼んだが皆気は付いているのだろうが、そう親切には言ってはくれない。感心じゃ。もっともアノ池は先祖からこの家の宝も同様で遥々(はるばる)遠方からも見に来るほどなので潰すのも惜しいものだ。実はアノ通り深い池で、もし誤って落ちるときは這い上がることが出来ないから、せめては縁へ鉄の柵でも作り、誰も落ちないように防ぐのが好いだろうと、これは先祖からの評議だけれど、柵などを廻らせては優雅さがなくなると言って今だにそれが出来ないほどだ。依って先ず潰すことは出来ないこととしておいて、-イヤそれもよくよく止むを得なければ潰して築山にしないものでもないが、-お前はこれからこの家の医者だ。抱え切りに抱えて置く。」
と言った。
抱え切り、アアこの言葉を聞いて妾(わらは)の嬉しさは如何ばかりか。村上も妾(わらは)と同じく嬉しさに耐えられないと見え、思わず喜びの目を動かしたが、又も妾(わらは)の目と見合った。この時はどっちも前のようにすくみはせず、唯村上の眼に浮かぶ心は妾(わらは)の眼に写り、妾(わらは)の眼に浮かぶ思いは村上の眼に映ずることとなった。眼の中の文字を読むのは唯恋人のみと聞く。
アア妾(わらは)は彼の恋人なるか。彼は妾(わらは)の恋人なるか。彼と妾(わらは)はこの間に互いに納得し合ったが、父は二人の眼を読む由も無い。もし読むことが出来たなら、決して村上を抱えの医者とはしないところだが、それを読むことが出来なかったため直ちに抱えの医者と定め、
「嬢よ、これから病人の有る無しにかかわらず毎日朝一時間、夜一時間づつ来てもらうことにしようね。」
妾(わらは)は赤らむ顔の色を鎮めて、
「如何でも貴方のよろしいように。」
父は
「好し、好し」
と言ってすぐに村上の給料を決めたがこれこそ村上の身に仇をする元とは知らない。
村上は非常に満足の様子で、これから後は毎日やって来た。
朝一時間夜二時間来るうちには父も益々村上の人柄を愛し、三、四時間も引き止めて置くこともあり、後には宴会の席に招き賓客としてもてなすこともあった。このようにする毎に妾(わらは)と村上との間は唯益々近くなるばかり。だが父はなお妾(わらは)に古山男爵と言う従弟が居ることを忘れなかった。
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