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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012.12.28

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第十七

 旅行券の表面(おもて)に妾(わらわ)を古山の妻と記すのは妾の身にとり容易ならない事柄である。古山はこの様に記して置いて、ついには妾を妻と呼び、妾に夫と呼ばせる為ではないか。こう思うと妾は迫り来る怒りの色を包む事が出来ない。
 「古山さん、これは余りひどいと言うものです。貴方の分に深谷賢之助と記してあるのは止むを得ず偽名にしたのでしょうが、私の分をその妻お華とは何事です。
 (古)何事でもないのさ、吾女(そなた)も矢張り本名は出されないよ。お華という偽名で好いじゃないか。 
 (妾)イイエ、偽名の事ではありません。偽名はもとより承知ですが、何故私をその妻と記しました。

 古山は少しも騒がず、かえって笑いを催して来て、そうまで物の道理を知らなくては困る。この旅行券は他人の品だよ。深谷賢之助という者が妻を連れて外国に行く為に前から外務省から受けていたその旅行券をそのまま譲り受けて来たのだよ。それだから偽名とは言うものの満更跡形のない偽名とは違う。この国の戸籍に深谷賢之助という人もあり、その妻にお華という女も有るのだ。それだから私はその深谷と言う人になり代わり、吾女は深谷の妻になり代わって国境を通り抜けようと言うだけの事さ。何も吾女を否応無しにどうこうしようというその様なことではない。

 妾はこの言い開きに心がやや解けたが、まだ合点が行かないところがあるので、
 「でも何故他人の旅行券などを借りて来るのです。もし露見したら如何します。」
 (古)ナニ露見するような恐れはない。それに二人とも落人なので本名は明かされない。それかと言って戸籍にない全くの偽名では旅券を願うわけには行かないから。
 (妾)それはそうでしょうが、如何して露見しないと請合われます。

 古山は又笑いを帯びて、
 「露見するはずがない。安心のため言って聞かせるが、総てこの辺りは国境に近いので年には何人も落人が遣(や)ってくる。ところが落人というのは大抵旅券を持っていないからそれを当て込みに、この辺ではいかさま師という悪い商人がいて沢山旅券を取って置き、落人のあるたびに高い金を取って売り渡すのだ。この旅券も矢張りその一つで、私は二枚買うのに参百五拾円(現在の245万円)の代を払った。

 (妾)それはいくら払いなさったか知りませんが、代価にはかかわりません。偽者なら必ず露見する事があるでしょう。
 (古)イヤそれが決してないから値段が高いのだ。いかさま師と言うのは数十年以前から生まれもしない子供を生まれたように届け出て、名前を戸籍に付けておき、その戸籍を証拠にして旅券を受けるのだから本当の深谷賢之助という者が現れてくるはずもなし、又政府に於いて本当の深谷賢之助という者がいないなどと見破る気遣いもない。これだから昔も今も逃亡して、ついに行方の分からない人間が幾らもあるのさ。皆この様な旅券を買って行くから。

 (妾)オヤその様な旅券ですか。それではついでのことに夫婦でない旅行券と買い換えましょう。
 (古)馬鹿を言え、買い換えると言ってもこの通り人相を書き付けてあるのだ。之なら吾女も私もいくらかこの人相書と似たところもあるが外に又人相の同じのが幾ら探したとてあるものか。深谷賢之助の妻と記してあってもそれをかれこれ言っていられない。一刻も早く外国に逃げ込むのが大切だ。

 言うところは一応もっともに聞こえるので、それはどうしようもないだけに他人から古山の妻と思われはしないかと村上の亡霊に気兼ねをして、心の内は安くはない時なのに、どうして表向きの書面まで妻と記されるのを好むだろうか。
 「でも貴方、何とか妻でないないように工夫がつきそうなものですが。
 (古)どう工夫がついても、誰が見ても夫婦旅だと思うほどだから、夫婦でないように記して置くとかえって怪しまれないものでもない。特に昨朝買った新聞にもあった通り、パリではもう吾女の悪事が追々露見しているのだもの、こう言ううちにも捕り手に踏み込まれては大変だ。今朝の新聞にはきっと村上の死骸が泥の中から出た事を麗麗と書いてあるだろうけれど、その様なものを読んでは、なまじ心配を増すばかりだと思ったから一層、盲で蛇ででも何でも知らないでいるほうが好いだろうと思ってわざと買わずに来たほどだ。サア、その様な詰まらない事を言わずに直ぐに出発するとしよう。」

 とこれよりなおも妾の身に難が迫るのを説き、一刻も早く出発しなければ危ういと言うその言葉は一々無理はないが、妾は今なおトンネルの中で見た村上の影法師が目の前にちらつくように思われ、その妻と言う二文字がひどく気に掛かって仕方がない。この字を旅券から消して捨てた上出なくては安心して旅をする事が出来ない。猶一応考えて見るので夕方まで待ってくれと漸く古山をなだめたが、古山はこれに機嫌を損じたように、それでは夕方に帰るからそれまでよく考えて置くが好い。こうなったらどうせ明日の朝でなければ立たれないと言い捨てて、何処かに立ち去った。

 妾はその後で何度も考え直して見たが、成るほどこうまで細工した旅券ならば露見することはないだろうとけれど、偽名にもしろ、妻であるとは名のることは出来ない。妾は日が暮れるまで一人思案に迷っていた。

 読者よ、妾の目の前には今将に大難が降り掛かろうとしているところだ。ここでこの様な事に時間を捨てるのは身を千尋の谷底に押し落とすようなものだが、神ならない身の一寸先さえ見ることが出来ないことこそ悲しい。思案既に尽きて、妾はふと顔を上げると、この部屋の隅に置いた置物台の上に一冊の写真帳がある。

 表紙さえチリに埋まっているのは永い前からここに置いたままと見える。妾はこれでも開けばそのうちに好い思案も浮かぶのではないかと立って行って取って来て、テーブルの上に置いて一枚一枚開いて見ると、この家の一家親戚知人を初め、一泊する客人に貰った写真まで順序もなくはさんだものであった。

 外国人と見えるのもあり、流行社会の紳士もいる。名のある女俳優、音楽師の姿も見える。開き開いて既に七分のところまで来た時、妾は思わずアレーと叫んで飛び返った。
 読者よ、ここに挟んだ一枚の写真はこれ村上達雄の姿であった。

 涼しい目許、冴えたる口付き、他に類ある顔ではない。アア村上の写真が如何してここにあるのだろう。或いは彼、以前に旅行してこの家に泊まった事があったのか。妾は不審よりも恐ろしさに堪えず。この写真にもし霊があるならばどれ程か妾を恨むだろう。見れば見るほどその口元さえ物言いたそうに動くかと疑われる。

 もしや妾がその死骸を上げようともせず、堅く他人に押し隠して一通りの葬式さえ営まなかったのを責めているのではないか。妾は恐ろしさに二目と見ることが出来なかった。唯口の中で祈るばかり。神よ、妾の罪を許し給え。村上の亡き魂を天国に救い給え。

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