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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第二十六

 読者よ。妾(わらわ)は前回の書置きを書き終わらないうちに、次第に神経熱病に取り付かれ、早や村上の姿がチラチラと目先に見える。書き終われば直ぐに死ぬだろうと思ったが、この後は夢中だった。自ら牢に在る事さえ知らず、村上と顔を合わせ、絶えず何かを語らっている気がするだけ。だが、このたびの村上は泥に塗れた影では無くて、生前の村上であった。顔かたちとも生きて妾と過ごしていた時と変わらない。

 今迄は妾は深く身の罪を押し隠し、古山と夫婦のようにしていた為に村上が地の底から妾を恨み、恐ろしい姿を示していたが、今は妾は既に書置きを作って我が罪を白状したため、村上が地の下から妾の罪を許し、真の姿を現すに至ったのか。妾は全く熱病に夢中であったので何事も知らなかったが、唯村上の姿を見た。妾は今なお歴然と覚えている。

 夢中ながらも妾は何度か声を発して、
 「オオ、村上か。恋しや。」
と叫んだ。叫べどその声内に籠もって村上には届かないようだった。又夢ながら、か弱い両の手を差し上げて、目に見える村上の姿を引き寄せようとする事もあった。だが引き寄せる手に力がないので村上に届かずに自ずから落ちる。

 「寄って来て、村上、御身はなぜ来て妾の唇に熱いキッスをしてくれないのか。御身は妾の唇の味を忘れたのか。忘れないと誓ったのは偽りだったのか。御身は偽りだったとしても、妾の心には偽りは無い。御身は忘れたとしても、妾ハまだ御身の唇の味を忘れない。なぜ御身はその唇を寄せないのだ。来て、村上、なぜ来ないのか。」

 読者よ、妾は絶え間なくこの様なことを口走っていると、村上の姿はただ妾を見て微笑むだけ。近寄りもせず、去りもしない。妾は自ら今はどの様な場所に在るかを知らないが、村上の姿の他は妾の目に触れるものは無く、妾の心に掛かる者は無い。数多い読者の中にハ必ず神経の熱病に掛かった事がある人もあるだろうが、その病の特徴として常に何者かが目の前にちらちらするのを知っているだろう。

 この有様で妾は何日経ったのか知らないが、初めて目が覚め、正気に返った時は、先ず村上が妾の傍に居はしないかとあたりをキョロキョロ見回した。しかし村上の姿は無い。ただ目に留まったのは、白く長い看護服を着た看護婦だけ。妾は、
 「オヤ」
とも言う事が出来ず、なおも怪しんで見回すうち、追々に記憶も返り、牢の中で書置きを認(したた)めたことまで思い出したが、さてはと気が付いて、又も見ると、ここは確かに牢の中ではない。

 初めて、
 「オヤ」
と怪しみの声をだすと、看護婦は怪しそうにしばらく妾の顔を眺めた末、恐る恐る。
 「貴方、気が付きましたか。」
と問う。妾はこれよりここは何処か、如何して妾がここに来たのかと問うと、ここは監獄付属の病院で、妾が一週間前に牢屋から神経熱病だといって、夢中のままを連れて来られたことを答え、更にその言葉を続けて、

 「どうも貴方が初めてここへいらっしゃった時は、何事も夢中の様子で、分からないことばかり口走っていらっしゃったが、昨日の朝から鎮まって、唯眠りなさるばかりでした。お医者も今度眠りが覚めたら多分正気に返るだろうから、その時はこの薬を飲ませてと言って、この通りお用意してあります。サア、これを召し上がれ。」
と一杯の水薬を差し出したので、妾は受け取って飲み干すと、かって飲み覚えの在る味で大いに気分まで引き立つような気がした。

 「如何です。院長さんがこれを飲めば直ぐに心が確かになると仰っていらっしゃいましたが。」
 (妾)アア、確かに清々として来るようです。
 (看護婦)そうでしょう。病院長さんのお言葉に間違いはありませんよ。初めは私どもまで、とても助からないだろうと思いましたが、院長さんがお上手なので。それにね、お弟子の吉木さんと仰る方が、この上もない親切な方で、一時間に上げずお出でになり、一々貴方の容態を院長さんに申し上げ、その度にお薬を取り替えたのですよ。貴方ほど手の掛かった病人はありません。

 (妾)イエ、どうもご厄介を掛けました。どうかこのご恩を半分でも返したいと思いますが。
 (看護婦)ナニ貴方、私にお礼などを仰るには及びません。御礼なら吉木さんに仰るが宜しゅうございます。もう吉木さんがどれ程骨を折りなさったことでしょう。
 (妾)そうですか。必ずお礼を申しましょう。それでその吉木さんとやらが一時間毎に見てくださったとなると、そのうちにここへお出でになりましょうね。

 (婦)そうです。昨日まではきっかりと一時間毎にいらっしてましたが、今日は朝の間に一寸お出でになっただで、まだお見えになりません。何でも貴方の方はこれで好いと安心して多分他の病人へお回りになさったのでしょう。それにしてももうお出でになる時分です。早や午後の二時を打ちましたから。

 (妾)知らない方にこの様なご厄介になって、如何か皆様お礼をしたいものです。
こう言ううちに又もや妾の心に掛かって来たのはあの書置きの一条である。妾は書き終わったまま捨て置いたのできっと今頃は判事の手に渡ッたことだろう。たとえそれらに渡らないにしても判事は最早パリ警視庁に問い合わせ、妾の身の上を知ったに違いない。そうすれば愈々古池華藻の名を知られ、裁判を受けなければならないか。死のうとして病に掛かり、今迄永らえて生き返ったのは幸いに似て幸いではないと、又も心痛を始めたが、読者よ、妾の体は病のために疲労したと見え、考えながら又眠った。

 しかし今度は神経熱の仕業と違うので眠りながらも正気だった。全く夢中の境界には落ちず、半ば眠り、半ば考え、又半ば夢を見ながらただうとうとと現のように二、三時間を経たと思う頃、たちまち村上の姿が現れ、ことに妾の耳に何事かを囁くようであった。その声さえも村上のようなので妾は驚いて目を覚まし、眼を開いてきっと見やると、アア、読者よ、村上の姿が歴々と妾の傍にあった。夢か現実か、妾は夢幻とは思わず全く村上の姿に相違ないので、思わず知らず、
 「アレー」
と叫んだ。
 この声に村上の姿は立ち上がり、そろそろと歩んで廊下に出て、何処かに行ってしまった。後に残ったは看護婦だけ。

 読者よ、村上の姿は世にいう幽霊の類だろうか。妾はなんとも判断する事が出来ない。立ち去る時の後姿まで村上に露ほども違わないのは何故だろう。妾はまだ熱病に浮かされているのだろうか。

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