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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.1.13

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第三十三

 妾(わらわ)は判事の前に引き出された。判事の傍には誰も居ない。唯遥か離れた所に書記と覚しき一人の男、言わば書こうと筆を研(と)いで控えているのみ。判事は憐れみを帯びた目付きで暫し妾の顔を眺めた末、
 「先日の申し立てに何か間違ったところがありますか。」
と問う。妾は善いも悪いも残り無く言い立てて、十分な裁判を受ける覚悟なので妾は少しも悪びれず、

 「ハイ、これまでの申し立ては皆偽りです。第一深谷賢之助の妻お華と申し立てた事からして違っています。私は侯爵古池家の令嬢華藻です。」
 判事は既に知っていたことと見え、別に驚く様子も無い。
 「フム、古池華藻嬢が如何して名前を偽り、如何してこの土地に来ましたか。」
 妾は初め、村上達雄を見殺しにしたことから、洲崎嬢の事、古山が事、怪しい影に魘(うな)されて、古山を焼き殺したこと、病院の庭で村上に会ったこと、村上が手紙を残して立ち去ったことから白状しようととの決心を起こしたことまで、宛(あたか)も他人の身の上を話すように、涙一滴こぼさずに述べ終わると、判事は静かに何やら書類を取り出し、一枚一枚繰り開いてこれを眺めながら、シテ牢の中で認めたと言う書置きは如何しました。妾(わらわ)は今迄彼の書置きはきっと牢版から判事の手に伝わったものと思っていたので、こう問われるの不思議だ。

 「ハイ、書き終わったことは覚えていますが直ぐに病気になりましたから、その後はどうなりましたか。ことによると牢番でも持っていましょうか。もしご入用とならば書き直しても同じことです。」
 (判)イヤ、それには及びません。全体から言えばその書置きも参考の一つにはなりますけれど、それだけの事実は既に警視庁から照会になっていますから偽りの無いものと認めます。覚悟した身とは言え、警視庁との言葉を聞けば、思わず恐ろしさに総毛立つ。

 (判)当予審廷で調べたのは、唯貴方が真実に深谷賢之助を焼き殺したのか焼き殺さないのかと言うだけの事で、その他は問いません。深谷賢之助が偽名で有ろうが無かろうが、総て見逃すこととして、貴方はまだ深い嫌疑を受けています。それは洲崎嬢を殺したと言う一件です。
 (妾) イイエ、それはただ今も言い立てた通り、全く覚えの無いことです。

 (判)イヤ、覚えの有る無しはここでは言う事ではありません。これは又パリの裁判所調でべられる時十分に言い開くがようございます。これについては当予審廷で調べていた深谷賢之助焼き殺しの一件もこのままパリへ移します。当法廷で十分に調べの済まない所だけはあちらの法廷で調べを受けますか、それとも又あちらの判事が全く寝ぼけてしたことと思い、予審限りで放免してくれますか、それはまだ分かりません。兎に角私の掛かりはこれで事済みとなりましたからそうお心得願います。証拠として取り押さえてあった貴方の手提げ、その他の品物は直ぐにパリの裁判官に引き渡しますから。

 (妾)そうすると私の身はどうなりますか。
 (判)直ぐにパリに護送されるのです。
 アア、護送、妾はこの様な法律用の言葉を聞く度に寿命が縮む思いがした。
 (判)パリから既に貴方を逮捕の為に探偵が出張して、この次の間に待っています。貴方の用意さえよければ直ぐにここに呼びますから。
 兼ねて覚悟の事とは言え、直ぐにと聞いては、心さえ落ち着かない。でもまあ私が洲崎嬢を殺したと言うその疑いの次第を聞かせて戴きたいものですが。

 (判)その次第は私には分かりません。パリの予審廷へ出た上で十分聞くことが出来るでしょう。イヤ、聞かなくても先から言い聞かせてくれるでしょう。
 (妾)でも私を疑うだけの証拠がありますか。先ごろの新聞には。
 (判)証拠があるから貴方を逮捕に来たのです。
 (妾)その証拠とは、
 (判)イヤ、それは分かりません。私の掛かりではありませんから。兎に角まず用意をしなさい。探偵が待っています。
 妾は何の用意もない。手荷物とした手提げカバンは既にパリまで送られたと言うなら、この身は着のみ着のままである。他に何の用意があるだろう。だからと言ってパリには妾の知人が多い。どの様にして護送されるのかは知らないが、せめて身なりだけでも正して置こうと、

 「では上下の衣服だけでも新調したいと思いますから、私の持っていた金の中で三百五十円だけお渡しを願います。」
 判事は又もその眼に憐れみの色を浮かべて、イヤ、それは出来ません。第一新調の時間もないので。
 (妾)イイエ、出来合いでも構いません。旅行着ですから、出来合いがあるでしょう。
 (判)イヤ、この辺りはパリと違って出来合いで三百円もする品を売る店はありません。それに金子も既に送りました。

 (妾)では致し方ありません。その代わりどうか裁判所に入るまで他人の目に触れないよう箱馬車の戸を閉じて護送して戴きましょう。
 (判)それも探偵の了見にあることで私には分かりません。これでよければ探偵を呼び入れます。
 妾はここに至って返事なし。判事は、
 「他に用意はありませんか。」
と念を押して立ち上がり、書記の傍に行って何事かを伝えると、書記は心得て立ち去ると見えたが、ややあって一人の男を誘って来た。

 これこそパリの探偵であろうと思うと妾はその顔を見る気もせず、首を垂れたまま控えていたが、判事は又も妾の傍に来て、
 「これがただ今申しました探偵です。」
と伝えた。妾は初めて立ち上がり、先ずその姿を見るとこれは如何した事か、探偵とは立派な人ではないか。妾は今迄探偵と聞くだけでその人柄を見たことはなく、或いは人の話を盗み聞き、或いは賊の跡をつけて行くなど、この上も無い卑しい所業をなす者なので、きっと車夫、別当の類でその面魂さえ鬼鬼しい者だろうと思っていたが、今この探偵を見るにおよび、ことの意外なのに驚いた。

 驚いて見開く目に、その風体を眺めると、上等の旅行服を着けた一廉の紳士である。年は七十にも近いと思われ、口の上下に生え茂る髭髯(しぜん)は悉く白くして、眉の毛までも雪ににていた。この年に及ぶまで探偵を業とするとはきっと有名な人に違いない。判事は暫しこの人に向かい何事をか打ち語られ、その言葉の間にも探偵長よ、探偵長よと呼ぶ声が漏れ聞こえた。いかにも探偵の長であるに違いない。

 この人はやがて妾の傍に来て、無言のままに妾の手を取り、非常に穏やかに妾を次の室に連れて行った。ここは上等の待合室とも言うべき所で、皮に包んだソファなど何脚か並べてあり、裁判所にもこの様な所があるのかと怪しまれる。

 読者よ、探偵長はこれより妾をどうしようと言うのだろう。

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