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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.1.18

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第三十八

 袖口のボタンがどうしてなくなったのか妾(わらわ)は少しも納得が行かず、
 「先生、このボタンをどうなされました。」
 (判)それは私から貴方に聞くことです。どうしてこのボタンがなくなりましたか。
 (妾)私がそれを知る筈はありません。私のいない間に誰かがもぎ取ったのでしょう。
 (判)イヤ、そうでは有りません。貴方が寝ている間この着物はベッドの横に掛けてありました。その時からして既に袖口のボタンが無かった事は貴方の父上が父上を初め医者までも気が付いていたと言います。

 (妾)では私の寝ている間に誰かが盗んだものと見えます。
 (判)イイエ、そうではありません。貴方が病気になった時から無いのです。
 (妾)「それじゃ」
と言ったがその後は出ない。それじゃ、如何したのだろう。妾は唯判事の顔を眺めるばかり。判事は包みの中から何やら取り出し、
 「このボタンを如何思いますか。」
と言いながら指し示す。妾は
 「ドレ」
受け取って見ると、これは如何した事だろう。全くF字のボタンなので、
 「アア、これです。これです。貴方が持っていらっしゃったのですか。」

 (判)「イヤ、私が持っていたのではありません。池の中から引き上げた洲崎嬢の死骸がこれを握っていました。」
 読者よ、妾の驚きを察せよ。洲崎嬢の死骸が妾の袖口のボタンを握っていたとは実に理解が出来ない事ではないか。
 (妾)どうして洲崎嬢の死骸がこのボタンを。
 (判)「サア、どうしてだか良くお考えなさい。手はもう腐ったようになっていましたけれど、その間からこのボタンが光っていたから取って来たのです。池の中の死骸に後からこのボタンを握らせることは出来ない訳ですから、落ちる時に握っていたものでしょう。貴方の袖口のボタンを嬢が握って落ちたとは不思議ではありませんか。貴方は嬢にこのボタンを渡しましたか。」
と言う中にも判事は妾の顔から目を離さない。

 (妾)イイエ、渡したことはありません。
 (判)それでは嬢が、貴方の腕から毟(むし)り取ったものとしか思われません。貴方は嬢と喧嘩でもしましたか。
 (妾)イイエ、少しばかり言い合った事はありますが、ボタンを取られるようにつかみ合った事はありません。それに言い合いもずーっと以前の事でした。
 (判)兎に角、貴方がこの着物を着てから脱ぐまでの間に嬢に会った事はあるでしょう。
 (妾)イイエ、村上より他は誰にも会いません。

 (判)それでは村上が毟(むし)り取って嬢に渡したとおもいますか。
 (妾)イイエ、そうも思いません。村上も誰もこのボタンを毟り取りは致しません。
 (判)でもこのボタンを嬢の死骸が掴(つか)んで居たとすれば、嬢が毟り取ったに違いありません。 
 (妾)だって、嬢も何も毟り取る筈が無いじゃありませんか。
 (判)イヤ、あります。貴方が突き落としたから嬢は落とされまいとして貴方の手にしがみつきこのボタンを取ったのです。

 (妾)それではこれを証拠にして、私を疑いなさるのですか。
 (判)そうです。疑うほかはありません。貴方が突き落とさなければ、どうしてこれが嬢の手にあります。
 (妾)どうしてだか、それが私に分かりますものか。
 (判)貴方が突き落としたものとすれば直ぐに分かります。それを突き落とさないと言い張るから分からない様になるのです。
 (妾)そこまで私を疑うのはお情けないと言うものです。突き落としたなら突き落としたと申します。

 (判)イヤ、そうは行きません。貴方は村上を突き落としながらそれを隠して逃げたほどですもの。
 (妾)ハイ、それは白状するだけの勇気がないから逃げましたが、こうして何もかも白状すると決心して、村上の事まで言い立てるからには、何も嬢のことだけ隠す訳はありません。突き落としたなら突き落としたと申します。嬢の事を隠すほどなら先ず村上の事を隠します。

 (判)イヤ、そうは行きません。貴方の志の中を言いましょうか。初めは村上が死んだものと思っていたから貴方は白状しなかったのです。白状すれば人殺しの罪に落ちると思ったのです。ところが村上は生きていて白状しても人殺しの罪に落ちないようになったから、色々考えた末、白状する方が身の為だろうと思い、これを白状しても嬢のことさえ白状しなければ無罪放免されると思ったのです。、そればかりでなく、判事を言いくるめ、村上の事を白状するから、もし覚えがあるなら嬢の事も白状するはずだと思わせ、村上の事を白状しながら嬢の事を白状しないのは全く嬢を突き落とした覚えがない証拠だと言い張るためです。そうでなければ逃げる前に白状するはずです。逃げて逃げて逃げ回った末、村上が生きている事が分かり、初めて白状する気になったのは、既に後の祭りというものです。裁判所ではこれは白状とは認めません。これでは後悔のためにする白状ではなく、唯罪を逃れるためにするのです。」
と隅の隅まで行き届く弁舌に妾は返事する言葉も知らない。

 唯、
 「何と仰っても覚えがありません。」
と答えるのみ。
 (判)たとえ覚えがないにしても、これだけの証拠が有れば貴方の罪でないとは言えません。あなたはその後で直ぐ神経熱病に罹ったから、今では御自分で忘れてしまい全く覚えのないことと思い詰める様になったかも知れません。その時は殺すだけの心があって殺しても、後になって忘れてしまい、どうしても思い出さないと言う事は随分例のあることですから。
 (妾)でも私が洲崎嬢を殺すと言う心の出るはずはありません。
 (判)イヤ、筈が無いとは言われません。貴方は洲崎嬢と恋の敵です。
 (妾)恋の敵でも人を殺すのは容易な事ではありません。

 (判)「それは恋の為ばかりではなく、他に殺さなければならない理由が出来たのです。その訳は村上を突き落とし、その罪の恐ろしさにアタフタして家の中に入って来たところ、洲崎嬢に認められ、村上は如何したと問われたのです。そこで貴方は返事に困る様子を悟られそうになったから、ついでに嬢までも殺す気になり、だまして池の端へ連れて行き、足場をはかって突き落としたのに相違ありません。その時はもう村上を殺して心が暗んで居る時ですから、それで御自分でもお忘れなさったのです。神経熱病の直った後で、村上のことは思い出しても、嬢のことはつい思い出さないのです。」

 この言葉は先に古山男爵が汽車の中で妾を攻め立てたのと同じである。一人ならず二人まで同じ見込みを付けるとは、誰が口にもこう見えることなのか。妾は全く身に覚えがないけれど、さては自ら殺したものなのか。村上の落ちたのに心が狂い、夢中となって嬢をまで突き落としたのか。夢中で突き落とした事なので今でもまだ思い出す事ができないのか。こう思うと妾は自ら我が身を疑う。アア妾が突き落としたのでなければ、妾のボタンが嬢の手に残るはずがない。

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