warawa49
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第四十九
妾(わらわ)は判事の差し出したボタンを手に取り、
「ハイ、見覚えが有ります。私が母の形見に受けた品です。」
(判)一番終わりにこの品を見たのは何時の事だ。
(妾)ハイ、一番終わりは予審判事から見せられました。
(判)イヤ、そうではない。一番終わりに身に着けていたのは。
(妾)それは八月二日の夜でしょう。病気の再発する少し前まで確かに着物へ着けていましたから。
判事は更に着物を出し、着物とはこれか。
(妾)ハイ、予審廷でもこの通りのお問いに与(あず)かりまして、これだとお返事を致しました。
(判)どうしてこのボタンを外したのか。
(妾)私も初めて予審判事に問われました時は合点が行きませんでしたが、今考えてみると、多分洲崎嬢が池に落ちる時このボタンを掴んで行っただろうと思います。
満場の人々は唯この返事を聞こうとのみ熱心にしていたと見え、全く静まり返って、今は動悸の音さえ聞こえるかと怪しまれる。判事も検察官もこの返事には少し驚いたものと思われる。
(判)フム、嬢が落ちる時に掴んで行ったかもう少し詳しく言い立てなさい。嬢はどうして落ちた時に掴んで行った。
妾は将に弁護人大鳥より言い付けられた通りに答えようとすると、大鳥はつと立って、判事に向かい、
「裁判長閣下、この所は被告が最も言い難いところです、前々から関係もある事で、唯この所だけ申し立てても分かり兼ねます。寄って私が一通り、前々の関係を申し立てて置きましょうと言って、大鳥は判事の許しを得て、これから村上のことを述べ、妾が池の傍で村上に会い、話の際に村上が足を踏み外して落ちた事から、妾が父に知らせてそれを救うため、家に駆け込もうとしたことまでの次第を非常に明確に語り終わった。
判事は頷いて、
「前々の関係とはそれだけの事か、しからば被告、今の問いに返事をせよ。如何して洲崎嬢がその方のボタンを掴んで落ちた。」
(妾)「ハイ、その次第は私が家に駆け込む時、如何した訳か、洲崎嬢が潜り戸の所に立っていまして。」
とこれより妾は大鳥の指図の通り洲崎嬢が妾を突き落とそうとして池の際まで押し戻し、妾が力足らずして押されながら石に躓き後ろにどうと倒れるはずみに嬢自ら滑り落ちたのだと述べた。
その言葉が終わると同時に、大鳥は立ち上がって、洲崎嬢が村上を慕った事から嬢が日頃の気質と日頃の行いを説き、
「この様な女で有りますから、洲崎嬢は妬みの心からして必ず被告と村上との話し声を聞き、足を止めて様子を伺っていると、村上が池に落ちたので驚いて、妬ましさに心も暗み、必ず被告を押して言ったのに違いありません。洲崎嬢の日頃を知るものは誰でもこれを信じます。要するに被告の申し立ては一点も暗いところがありません。」
と言い終わって席に戻った。
今迄黙然と聞き入っていた検察官は辺りを睨みながら、重々しく立ち上がって、
「ここに一言することがあります。この度の事件に於いては、証拠と言う証拠は悉(ことごと)く集まり、少しも不完全な点はありませんが、唯その中で遺憾と言うべきは、肝心の証人である村上達雄の行方が分からない一条です。全体言えば被告は第一に村上達雄に対する謀殺未遂の嫌疑がありまして、その嫌疑からこの事件の取調べが始まったわけですけれど、調べるに従い、他の嫌疑が重くなり、特に村上達雄が何の怪我もなくまだ生きながらえていると言う事も分かり、村上が当被告に害を受けたものでないと定まったゆえ、村上に対する被告の嫌疑は予審の中途で消えてしまいました。
そうすれば村上なるものはこの事件に付き被告人ではない代わりに、最も大切な証人です。その証人の行方が知れないのに本官に於いては公訴を起こした次第ですので、弁護人に於いても、この点をかれこれ言う語気が見られます。しかし、これには仔細があることで、たとえ村上は出廷しなくても他にあまたの証拠があって、被告の罪を定めるのには十分です。既に十分な証拠がある者を一証人の行方が分からないために、次回の公廷まで伸ばすことは出来ません。
これにより本官はなるべく村上の事は言い出さず、被告にこの上の重荷を負わせたくないと心掛けて来ましたが、被告、並びに弁護人に於いて村上の行方が知れないのを幸いとして意外なことを申し立てます。村上自ら池に落ち、それを助けようとするために我が家に駆け込む際、洲崎嬢に認められて、付き返されたとは実に意外な申し立てです。被告が何度も予審廷に於いて、一度も言い立てたことが無い事実です。
これは村上が行方知れずなのを幸いに気まま勝手なことを言い立てるものでは有りますまいか。被告に於いて、この様な容易ならざる事を言い立てるに於いては、本官も又、村上の行方が分からないのは被告にとりこの上も無い幸いですが、しかし、ここに村上の自筆の手紙が参考品として手に入れてあります。この手紙さえあれば村上は出廷しなくても彼と被告とどの様な間柄であったか、被告が村上に如何(どう)したか、果たして被告の言う如く村上自ら足踏み外して池に落ちたのか、被告の言いたては、全く事実と合っているか、それらのことは総て分かります。」
と言いながら、又も一層勿体つけて満場を睨み回した。
アア、検察官は村上が妾を責めたあの恐ろしい手紙を持ち出そうとする。
(検)この手紙と言うのは既に確かな鑑定を経て、村上の自筆と分かっています。被告が深谷賢之助の妻、お華と偽名して、サレスの監獄病院に隠れている時、村上がその薄情に驚き、恨みを並べたた手紙です。被告自らも全く村上の書いたものと白状した手紙です。書記をしてこれを朗読させる事を願います。
アア、かの手紙を読み上げられては恐ろしさに気絶するかも知れない。
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