warawa56
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第五十六
村上達雄は静々と入って来た。妾(わらわ)は彼の様子を見て我が運の全く尽きたのを悟った。
彼は非常に悲しそうな顔の中にも断然たる決心を示し、妾の方には見向きもせず、宛(あたか)も機械のように進んで行って判事の前に立った。その心の中で妾の罪を数え上げようと思って居る事は早やその振る舞いの上に現れている。
妾はどの様に彼の言い立てを拒んだら好いのだろう。彼は一言の元に妾に罪ありとし、彼の手紙を認めた通りのことを言い立てたならば、妾は何と言って答えたら好いのだろう。妾の胸の中は唯当惑に波立つのみ。
判事は先ず村上の姓名、年齢、職業を問い、偽りを言い立てない誓を立てさせた後、
「そのほうはサレスの病院に於いて、ここに居る被告に宛てて一通の手紙を認め、その中に八月二日の夜、被告から古池の中に突き落とされた旨を記してあるが、当夜の様子を更に一応申したてよ。」
村上は何と答えるだろう。この時満廷の人々は唯それを聞こうとして鎮まり返り、余りの静けさに五千人の人々が何処かに隠れたのかと疑われるばかりだった。
村上はしばし心を落ち着けようとする様に、胸の辺りを撫で下ろした後、
「私は被告の不幸を憐れみます。彼の手紙の為に被告にこの上も無い疑いを掛けた事を嘆きます。」
と是だけの前置きに、検察官は早や立って、
「裁判官閣下、当証人が今からしてこの通り被告を憐れむ程では、満足な証言は得られません。本官は再び退かせる事を願います。」
と述べたが、裁判官は採用せず、
「イヤ、本官に於いて必要と認める時は退廷を命じます。それまではこのままで言い立てさせます。サア、証人、続いて申し立てなさい。」
村上は言葉を継ぎ、
「彼の手紙は全く間違いです。彼の手紙に書き立てた事柄は一つ一つ間違っております。」
彼の手紙を間違いとは、妾自ら我が身を疑うばかりである。さしもの判事も驚いたと見え、
「何と申す。彼の手紙を間違いとは。」
(村)ハイ、全く事実と違っています。唯一時の思い違いから事実と違ったことを書き立て、それが為被告に一方なら無い難儀を掛けたたかと思うと今更ながら、後悔に耐えません。それですので実は探偵吏の許まで自首して出て、唯今ここに引き出された次第です。
(判)ナニ、自首とな。その方は自首して出たのではない。証人として当法廷へ呼び出されたのじゃ。
(村)ハイ、いかにも証人として呼び出されましたけれど、彼の手紙は間違っております。その違っているところを申し立てなければなりません。
読者よ。村上は狂気したのではないか。
(判)間違っているとは、わざと事実に違ったことを書いたと言うのか。
(村)いいえ、そうでは有りません。書く時には全く事実とばかり思い、被告を恨んだ気持ちから思う存分に書きましたが、後になって事実の違って居る事に気が付きました。初めは飽くまでも被告が私を突き落としたとばかり思っていましたが、全く被告が突き落としはしないと言う事に気が付きました。
検察官も村上の言葉を聞くに従い、益々苛立つ様であったが、今は聞きかねてか又立ち上がり、
「裁判官閣下、証人が被告を憐れみその罪を曲庇しようとする様子は既に充分見えて居ます。直ぐに被告を退廷させなければどの様な誤りを生じるか分かりません。」
弁護人も又立ち上がり、
「決してその様な心配はありません。証人が未だ取り留めるに足る事実を申し立てない先に、被告を曲庇するなどとは余りに早すぎた御議論です。
判事は双方の言葉を聞き流し、知らない顔で村上に向かい、
「シテ、その間違って居るという事にどうして気が付いた。」
(村)私は被告の書置きを読んで気が付きました。
(判)ナニ、被告の書置きとな。
(村)ハイ、被告がサレスの未決監に居る時、死を決して認めた書置きです。
アア、村上は彼の書置きを見たのか。
(判)どうしてその様な書置きを見ることが出来た。
(村)是については本末を申さなければ分かりません。私がサレスの監獄病院で未決監を見回った時、初めて被告が牢の中に居るのを見、夢かとばかりに驚きましたが、その次に見回りますと被告が泣きながら筆を執り、何かを認(したた)めて居りました。そのことは彼の手紙にも記しておいたかと思いますが、その認めていたのが即ち被告の書置きでした。私は被告が病気になった時、第一番に見付けました。小使いと共に牢の中に入りましたが、その時被告の書き上げた書面がありましたので、書置きとは知る由もなかったですが、充分に被告を恨んで居た時ではあるし、特に被告がサレスに迷い来たのを不審に思っていましたので、後でこの書面を見ればその仔細が分かるかもしれないと、密かに自分のポケットに入れて知らない顔で済ませました。
その後、読んでみようとは思いましても何分、心が落ち着く時も無く、それをも身に隠したままで病院を立ち去りましたが、それからある宿屋に隠れ、初めてその書面を開いて見ますと、あにはからんや、嬢が、否、被告が我が身の恥じを厭い、死ぬ気になって認めた書置きでした。(当話の第一回から第二十四回に至る本文) この書置きを見れば被告の潔白なことは分かります。今死ぬという際になり涙を濯いで書いた手紙にもとより偽りのあるはずも無く、私は唯一読したばかりで直ぐに我が過ちを悟り、意地悪な手紙を後に残して被告を責めたのはこの上も無い粗相であったと充分に後悔の念を起こしました。
それゆえ直ぐに自首して出ようとは思いましたが、少し仔細があって唯今まで隠れていました。更に疑わしいことがあれば、どうぞこの書置きをお読みくださる事を願います。この通り持って参りました。」
と言いながらかの書置きを判事の前に差し出した。
是を見れば村上は妾の書置きを見て、妾に罪の無い事を知り、妾を恨んだ我が粗相を後悔し、妾を救うためにと言って、彼の書置きまで携えて来たものである。
読者よ、こう聞いた妾の喜びを察せよ。妾は村上に抱き付きたい。抱き付いてその恩を謝したい。
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