巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百八  庭の人影 一

 戎(ぢゃん)は間も無く病気が直った。身体だけは元の通りに成った。併し心の病気は何うだろう。是れは誰も知ることが出来ない。
 或時彼が外出して、帰って来ない夜の事で有った。小雪は居間に籠り、独り思いに沈んで居ると、庭に面した窓の下で、人の歩む様な音が聞こえた。暫く耳を澄ますと、何だか忍び足に歩んで居る様に思われるので、簾(すだれ)の隙間から庭の面を覗いて見た。庭には月の光が落ち、樹や草叢(くさむら)などが所々に影を為して居るけれど、人の居る様子は無い。更に窓を開け放して眺めたけれど、何物も目を遮らない。

 扨(さ)ては足音と思ったのは風の音ででも有ったのかと、此の夜は其のまま忘れて了(しま)った。翌夜は独り庭に出て月に歩し、毎(いつ)も自分の場所と決めて居る樹陰に行き、腰掛け台に憩(いこ)うて居ると、又も昨夜の様な足音が、何処からと無く聞こえた。イヤ聞こえたと言うよりも、聞こえる様な気がしたのだ。

 草木の茂って居る所には様々の物音が有る。枯れ枝が落ちても、葉が飛んでも、或いは微風が渡っても、足音の様に聞こえないとは限らない。小雪はそう思って自分の心を鎮めたけれど、何うも怪しさが消えないから、立って家に入る積りで其の所を去り、樹の茂った所から、月の照る芝草の上に来た。

 自分の影が自分の前に落ちたのは別に怪しくも無いが、自分の影と並ぶ様に、もう一つの人の影が芝生の上に横たわって居る。
 是には驚かない訳には行かない。本来小雪は臆病の質(たち)では無い。昔し軍曹旅館に養われた頃、山の井の水を、夜半(よなか)に汲みに遣られた事なども有るのだから、たとえ其の頃の事は大方忘れ尽くしたにしても、世間の同じ年頃の女達よりは、何方(どっち)かと言えば気の確かな方である。

 けれど今、自分の影に添って、もう一つの影の有るのには、驚いて殆ど身震いした。
 誰か自分の背後(うし)ろに立って居るのかしら。振り向けば容易に分かる事で有る。けれど其の振り向くのが容易な事では無い。小雪の身は殆ど立蹙(たちすく)んだ。
 若し小雪にして、気を落ち着けて篤(とく)と其の影を見たなら、或いは誰かの姿に似て居るとまで、見て取る事が出来たかも知れない。

 其の影は男である。背の高い方である。紳士の被(かぶ)る様な帽子を被って居る。けれど小雪は全くこの様な有様を見て取る事は出来なかった。目には確かに写ったけれど、そう一々心に留めて批評する猶予は無かった。暫(しばら)く蹙(すく)んだ末、逃げる様に駈け出した。

 併し少し逃げて少々勇気が回復した。父が帰らない留守の間だから、若し怪しい人でも入り込んで居れば、捕らえて取糺(ただ)さなければ成らない。
 こう思って老女を呼び、共々今の芝生の辺に行き検めた。けれど今見た人影は消えて了(しま)った。

 猶(なお)も女二人の力に及ぶだけは、木の影、草叢の辺などを調べたけれど、是かと思う跡をさえ、認める事は出来なかった。老女は言った。
 「嬢様、貴女は御自分のお気の所為(せい)ですよ。貴女ほどの年頃には、誰でも乾して有る着物が幽霊に見えたり、樹の影が人に見えたりするものです。」

 小雪は
 「そうだろうかねえ。」
と答えたけれど、何うも自分が自分の心に欺かれたとは思う事が出来なかった。気の迷いにしては、余り其の影が鮮明に見え過ぎた。
 「けれど、ねえ婆や、良く戸締りなどに気を付けてお呉れ。此の家の庭はブルメー街の方の木戸が古くて、其れに垣なども低いから、私は阿父(おとう)さまが留守の時などは心配で成らないワ。」

 婆や「アアその様に心配なさるから、其れで猶更(なおさら)ご自分の心に欺かれるのですよ。ご安心なさい。私が居ます間は、戸締りなどに失念(ぬかり)は有りませんから。」
と言って止んだ。
 けれど小雪は翌日、此の事を戎(ぢゃん)に話した。戎は容易ならない顔をした。


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