巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十一 軍中雑記 二

      ▲其三 蛇兵太就縛
 蛇兵太を高手小手(たかてこて)《人の両手を後ろに廻して厳重に縛り上げる事》に縛(いまし)めて首領エンジラは酒店の裏の方へ引き立て行き、彼を確(しっか)と柱に繋いで宣告した。
 「此の堡塁の破れる十分間前に貴方を射殺します。」
蛇兵太は度胸を据えて居る。

 「何故に、今直ぐに射殺して呉れませんか。」
 エンジラ「弾丸が大切です。一発と言えども最後の場合まで蓄えなければ成りません。」
 流石に首領の心掛けと言う可(べ)し。
 蛇兵太「では刀で斬り殺して戴きましょう。」

 エンジラ「イヤ吾々は裁判官です。刺客では有りません。」
 こう言って更に、小僧三郎に向かい、
 「汝は身体(体)が小さく人目に立たないから、外へ出て町の様子を見届けて来い。」
 首領から直接に命を受けるのは名誉である。彼は傍(かたえ)に横たわる蛇兵太の銃を顧み、
 「此のお使いが済んだら、鉄砲は小僧に下さいよ。」
と念を押して、勇み立って出で去った。

    ▲其の四 押し寄せる官兵
 夜は十時に及び堡塁の内外が寂然(ひっそり)と静まった頃、町の彼方で、軍歌を唱(うた)う子供の声が聞こえた。篝火(かがりび)の傍に立って居た首領は居並ぶ一同に向かい、
 「アア小僧が我々に合図するのだ。遂に官兵が押し寄せた。」
 一同は愈々戦う時が来たと見て、今更の様に銘々に其の身体(体)を引き締めた。其の所へ飛び込む様に小僧は来て、

 「サン・デニスまで官兵の大軍が押し寄せました。約束の鉄砲を下さい。小僧も戦います。」
 此の知らせを聞くや否や、孰(いず)れも銃を用意して、思い思いの場所を占めた。
 エンジラ「決して弾丸(たま)を粗末にしない様、十分に敵を眼前まで引き寄せなければ発射しては可けません。」

 言う所へ早や彼方より、大勢の押し寄せる声が聞こえた。
 敵は此の堡塁を、暗闇の中に認め、町の向こうの角まで来て射撃を始めた。幾千の兵だろう。真に弾丸が雨の様に飛んで来て、塁の中の人達も少なからず射(え)仆(たおさ)された。けれどエンジラの命令が厳重だから、此方(こちら)からは未だ一発をも答えない。成る丈無難な所へと、思い思いに身を潜めて敵の更に近づくのを待って居る。

        ▲其の五 八十の老人難に殉ず
 其のうちに雨の様に敵の丸(たま)が、堡塁の頂辺に立ててある大旗の旗竿を射折った。旗は竿と共にエンジラの足許に落ちた。誠に不吉な事柄である。エンジラは其の旗を取り上げて一同を顧みた。
 「誰か此の旗を堡塁の上へ立て直しに行く者は無いか。」
 彼の声は塁内に響いた。けれど誰も応ずる者が無い。若し応じて堡塁の上に登れば直ぐに射殺されるに決まって居る。幾等死を恐れないと言う勇士でも、必然の死に目掛けて進むことは出来ない。エンジラは少し腹立たしそうな調子で再び叫んだ。

 「サア誰か、サア此の旗を立て直さなければ、吾が党の恥辱である。」
 一同は鎮まり返った。我れこそと進み出る者が一人も無い。エンジラの眼は篝(かがり)の火が燦(きら)めいて物凄く光った。彼れは三たび叫ぼうとする折しも、静かに彼の手から其の旗を引き取った者が有る。誰かと見れば、肩に掛かる頭髪は、胸に垂れる髯と共に雪より白く、一見して余程の老体と知られる老体である。

 八十を越えた此の翁(おきな)を、革命軍中の人と為らしむるとは、政治が世の中を何れほど苦しめて居るかが察せられる。
 翁は大旗を持ったまま無言で堡塁へ上り始めた。一段又一段、踏む足も確かである。一同は之を見上げて深く尊敬の念を生じた。
 「脱帽せよ。脱帽せよ。」
との声が幾人かの口から出た。

 声と共に一同は帽子を脱ぎ、無言の中に敬意を表したが、其の中に翁は頂辺(てっぺん)に達し、確(し)かと旗竿を押し立てて、自ら此れに縋(すが)り、闇に透かして雲の様に集まって居る敵を見降ろした。実に壮烈の光景である。下に燃える篝の火は、風に吹かれる翁の長い白い頭髪を照らし、人をして天から降立った神の姿ではないかと疑わしめた。翁は響き渡る声で三呼した。

 「共和国万歳、革命党万歳、同胞ーーー平等ーーー然らずば死」
と。其の声の絶えないうち敵の丸(弾)は翁の一身に集まった。翁は仆(たお)れた。血塗(まみ)れの死体と為って塁の中である一同の足許に落ちた。エンジラは直ぐに死体を抱き上げて其の額に接吻し、且つ血に染まった翁の服を指し示して、

 「此の勇気こそは、八十の老人が吾々二十歳の青年に与える教訓です。此の血の色を今後我が党の旗色と定めましょう。」

        ▲其の六  守安来る
 敵は引き続いて堡塁に肉薄した。真部翁の今の行いに気の立った青年等は塁の外に躍り出でて敵を仆(たお)し仆された。
 躍り出た中には彼の守安の同宿者近平も有った。小僧三郎も有った。三郎は自分の力に余るほどの蛇兵太の銃を持ち、自分を目掛けて飛び掛からうとする一兵を狙って射たが、悲しや此の銃には弾薬を籠めて無かった。近平(ちかへい)の方も敵数人を仆したけれど、終に敵の筒先に立った。こう成っては全くの混戦である。もう小僧も近平も、敵の狙い定めた一発で射殺されるのみの場合と為った。

 此の時誰かが横手から先ず小僧を狙っている一人を射仆(たお)した。次に近平の敵を射仆した者が有る。二人ともに、無い命を救われたのだ。誰かと見れば守安である。
 彼は一丁の拳銃を持って居る。是も実は蛇兵太の物である。曾て白翁と手鳴田との事件の時、合図の為にとて蛇兵太より渡されたのを、今其のまま持って来たが、幸いに此の方は実弾を籠め直す丈の手数を怠らなかったのだ。


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