巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十三 軍中雑記 四

      
 今発射すると言う鉄砲の筒口に手を当てて、自ら自分の身を傷つけるとは、何と言う愚かな業だろう。
 けれど其の胸中を察すれば実に憐れむ可(べ)きである。絵穂子の心には唯だ守安を助け度いと言う一念の外には何も無いのだ。守安の命を取り留める為に、自分の命を捨てようとしたのだ。

 守安の心中には、小雪より外の女を容れる丈の余地は無いけれど、絵穂子の此の様を見、此の言葉を聞いては深く感じた。
 「アア貴女は飛んだ事をしましたねえ。」
とは言え、守安自身としても、其の同じ飛んだ事をする為にここへ来て居るでは無いか。小雪を思って、其の愛の遂げられない為、死ぬ気になって此の戦に加わって居るでは無いか。絵穂子は辛い呼吸で言った。

 「イヤ之が本望です。」
 守安「併し人は手の掌(ひら)を射抜かれた丈では死にはしません。何うかして手当所へ連れて行って上げましょう。」
 全く何うかして助けなければならない。昔戦場で我が父を助けた恩人の娘である。
 絵穂子「イイエ、何うしても私は助かりません。丸(たま)は手の掌(ひら)から入ったけれど背中へ廻って来て抜けましたから。」

 成る程そうでも無ければ是ほどの容態にはならない。守安は唯ウロウロした。
 絵穂子は言葉を継いだ。
 「私は射られてからやっとここまで来ましたが、もう動く事が出来なくなりました。是で貴方の顔を見ずに死ぬかと思うと悲しくて―ーー其れに傷(いたみ)も段々重くなり、私は自分の袖を食い裂いてやっと我慢して居たのです。貴方がお出で下さったのは、天が未だ私を捨て無いのでしょう。守安さん、外にお願いは有りませんから、何うぞここへ据わって、貴方の膝を貸して下さい。」

 守安は大地に座して絵穂子の頭を膝に載せた。
 「アア是で痛みも忘れました。お医者様も何も要りません。守安さん、私は罰が当たったのです。貴方が夜な夜なブルメー街のあの庭に忍び込むのが、私は腹が立って時々悪い了見を起こしました。今夜は貴方が失望して、お死に成さる気を起こし為さったと見ましたから、其れで貴方へ此の砦を教えて上げたのです。

 此の砦へ来ればもう生きてお帰り成さる事では無いと、ハイ私は貴方の寧(い)っそ死ぬのを祈りました。貴方が死ねば私も気が楽になるのです。其れでも貴方に鉄砲を向けて居るのを見ると、我慢して居る事が出来なくなり、思わず知らず其の筒口へ取り縋りました。」
 是だけ言って息が絶えたかと思われたが又声を出し、

 「貴方も何うせ死ぬのでしょう。皆なが死ぬのでしょう。オオ嬉しい、私は喜んで死にますよ。」
と言い掛けたが、自身の動く為に又も痛みが冴え返ったか、
 「オオ痛、痛。」
と息の詰まる様に言って、再び袖口を噛み裂いた。切めては此の痛み丈でも弛(ゆる)めて遣る工夫はと守安は空しく辺りを見廻したが、此の時砦の辺りから、子供の声で例の軍歌が聞こえた。絵穂子は耳を立て、

 「アレ私の弟ですよ。何うか弟に見られない様に死に度い。」
 守安「エ、弟とは。」
 絵穂子「三郎と言う小僧です。此の堡塁へ来て走り使いをして居るのです。」
 驚いて守安は身を動かした。
 絵穂子「少しの間です。何うか行かずにお待ち下さい。私は死ぬ前に白状が有りますから。」

 人の臨終の白状は神聖である。誰とて尊敬しない訳には行かない。守安は容(かたち)を正した。
 絵穂子「昨日ですが実はあの方、お引越し成なさる時、私へお手紙をお預け成されました。」
 あの方とは小雪だろう。
 絵穂子「其の手紙を私は、貴方へは渡さない積りで居ましたが、その様な罪な事は出来ません。今私の衣嚢(かくし)の中に在りますから、何うぞ取り出して下さい。」
と言いつつ、力の無い手で守安の手を持ち添いて、自分の衣嚢(かくし)を探らせた。

 成るほど中に手紙の様な者が有る。守安は其れを取り出して自分の肌に納めた。読み度いけれど真逆(まさか)に此の死に際の人の前で読む訳には行かない。絵穂子は再び息が絶えた。併(しか)し三度又口を開き、今度はやッと聞き取れるほどの声で、
 「私に約束して下さい。 」
 守安「エ、何んと」
 絵穂子「約束を、約束を」
 守安「ハイ約束します。」

 絵穂子「私の死んだ後で、何うぞ私の顔にキッスして下さい。」
 是が絵穂子の最後の言葉である。承知する守安の返事が聞こえたか、聞こえぬか、ニッと笑(え)もうとして、笑む力も無く事切れとは成った。
 此の様な不幸に終わる恋が世の中に少なくは無いとは雖も、誰でも之を聞いて、可哀想と思わずに居られる者では無い。守安は何と無く胸が迫った。



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