巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou125

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.8. 4


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十五 軍中雑記 六

      
 絵穂子、守安、小雪、孰れも辛い境遇である。其の中で、死んでしまった絵穂子一人が既に世の苦しみを逃れただけ、生きて苦しんで居る他の二人より猶(ま)だ幸いかも知れない。
 けれど同じ生きて苦しんで居る人の中には此の二人よりも、もっと辛い地位に立って居る人が有る。其れは戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だ。

 小雪も守安も、苦しむとは言え、愛を得て苦しんで居る。戎瓦戎は愛を失って苦しんで居る。其れに彼は毎(い)つも毎つも身の置き所が無いほど危険な境遇に立って居るのだ。
 戎が小雪を愛するのは、昨日今日の事では無い。小雪の母を救った時分から因縁が続いて居るのだ。そうして今まで小雪を育て上げた艱難辛苦は、親身の親でさえも出来る事では無い。

 此の様にして唯小雪の為に苦しみ小雪の為に生きて居る間に、愛が益々深くなったのが無理か。彼は小雪の外に何の慰藉(いしゃ)《なぐさめいたわる事》も此の世に無い境遇とは成った。此の境遇に至って忽(たちま)ち小雪の心を他へ奪われたのだ。
 彼は未だ真に奪われたとは知らない。唯庭に怪しい名札が落ちて居たので、もしや奪われたのでは無いかと疑った。此の疑いが彼の身を攻めて居る。

 此の疑いの為に彼は引っ越した。けれど未だ此の疑いが解けない。顔にこそ出さないけれど心の内は燃えて居るのだ。所が燃えて居る火を更に煽り立てる様な椿事に又出逢った。
 小雪の部屋に鏡が掛かって居る。彼は何かの機(はずみ)に、斜めに其の鏡を覗いたが、鏡の面に、何処から射すか知らないけれど、文字が写って居る。

 其の文字は小雪の筆跡で、
 「恋しき君よ。」
との句である。恋しき君、アア是が一通りの文句であろうか。彼は何処から此の文字が写って来るのかと部屋中を見廻すと、小雪の机の上に吸い取り紙が有る。其の表面に、左文字で恋しき君よ」云々(しかじか)の句が残って居る。之は何の為。言う迄も無い。手紙を書いて早く其の墨を乾かせる為め吸い取り紙で押したから、紙の表へ其の文字が左に残って居るのだ。

 吸い取り紙を取り上げて戎は更に細かに検(あらた)めたが、良くは分からないけれど、相思う人が有って、其れに書を送ったと言う事は争われない。相手は誰だろう。言う迄も無く名札を落として有った守安と言う男に違い無い。公園で幾度も見受けた彼の書生なんだ。是を思うと何年来、自分で揉み消して居た心の底の怒りの一念が、自分で制する事の出来ない程に湧き起こった。

 人は一種の獣である。何の様な善人でも心の底には、獣と同じ様な盲情が潜んで居る。唯自分で勉め勉めて其の盲情を押さえ附けるから、終に枯れ尽くして本当の善人とは成って了(しま)うのだ。戎の如きは其の昔、盲情の強い男で有った。或場合には人間よりは寧(むし)ろ獣に近かったと言っても好い。其れが聖僧の感化で全く生まれ替わった様に成り、自分で勉め勉めて到頭盲情を押し附けて了(しま)った。是でもう全く善人に成り得たと自分でも思って居た。イヤ思った許(ばか)りで無く、確かに善人と為って居るのだ。善人も善人、世に殆ど類の無い善人だ。

 けれど心の底の何所かに、未だ盲情の根が潜んで居た。此の根は到底絶える者では無い。絶えた様に見えても、幾等か残って居る。誰にでも残って居る。既に残って居て見れば、時に感じて萌え出でないとは限らない。火薬は何れほど古びて居ても火に逢えば爆裂する。一旦爆裂した上はもう何れほど燃え広がるかも分からない。戎が心の底に残って居た唯一点の盲情と言う火薬が、今は火の中に投(くば)ったのだ。

 猛然として戎が心の底に、烈(はげ)しい烈しい痛みが起きた。彼は胸を抑(おさ)えて殆ど悲鳴の声を発した。彼は自分の善心が痛く衝き動かされるのを感じたのだ。彼が身は既に既に善心と同化して居る。少しでも心中に悪と云う心が動けば、痛みを感ぜずには居られないのだ。彼は此のまま居ては悪心に食われて了(し)まうと感じた。人が虎から逃げる様に彼は悪心から逃げた。けれど充分には逃げ果(おお)せなかった。

 彼は走って外に出た。そうして家の前に在った小さい台の上に腰を下ろし、独り首を垂れて呻吟(うめ)き始めた。此の時の辛さは他人には想像する事が出来ない。彼は唯胸を撫でて居る。果ては茫乎(うっとり)として自分で自分を知らない様な状(さま)とは成った。此の時彼の居る所から何mか離れた所で、不意の消魂(けたたま)しい物音がした。彼は驚いて首を上げた。見ると一人の小僧が、街燈に石を投げて其の硝子を砕き落したのだ。小僧は物識り顔に吼(ほ)ざいて居る。

 「吾々革命党が旗を揚げて居るのに、市民が現政府の街燈(ツジランプ)に照らされて居るとは怪しからん。昔から革命の時には一番掛けに街燈(ツジランプ)を毀した者だ。」
 戎は乞食の小僧が、食うに困っての悪戯(いたずら)だらうと思った。彼は何の様な場合でも涙が有る。直ぐに衣嚢から五法(フラン)の銀貨一枚を取り出して小僧の前に差し出した。小僧は此の様な大きな銀貨を初めて見た。殆ど我れ知らずの様に受け取って、戎の住居の窓から差す灯光(あかり)に熟々(つくづく)と眺めたが忽ち気が附き、
 「イヤ我が党は賄賂は受けない。」
と言って返そうとした。

 戎「お前には阿母(おっか)さんが有るだろう。」
 小僧「有るとも」
 戎「では阿母さんに旨い物でも買って食べさせるが好い。」
 小僧「幾度賄賂を呉れたとて、町の硝灯(ランプ)を毀さずには居られ無い。此の様な時に腹癒(はらいせ)しなければ。」
 戎「硝燈は幾等でも毀すが好い」

 小僧「オオ伯父さんは話せるなア、其れでは貰って置こう。」
と云って直ぐに去り掛けたが、
 「オオ嬉しさに用事を忘れては大変だ。伯父さん、お前は此の町の七番地を知って居るかえ。」
 七番地は戎の家だ。戎は忽ち気が附いた。
 「己は先程から手紙を待って居るのだが、お前が其の使いでは無いのか。」
 闇の鉄砲が当たった。

 小僧「だって伯父さんは令嬢では無いぢゃ無いか。」
 戎は益々見当が付いた。
 「ナニ小雪嬢に代わって俺が待って居るのだよ。」
 小僧は手紙を取り出して眺め、
 「オオ小雪嬢、小雪嬢では伯父さんは此の手紙が、ショベリーの堡塁(とりで)から来たと言う事を知って居るのだね。」

  戎は少し考えようとしたが直ぐに、
 「知って居るとも」
 小僧「堡塁の誰から」
 戎「本田守安からさ」
 小僧は安心して手紙を戎に渡した。そうして立ち去った。


次(百二十六)へ

a:17 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花