巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百五十一 最後 四

 手鳴田の持って来た羅紗の切れと、守安の持ち出した外套の切れの穴と、この様に合う上は、もう何も彼も分かった。
 守安を助けたのは全く戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)であった。彼は堡塁から河の傍(そば)まで数哩(マイル)の長い間を、暗い下水道の中を通り、泥の底無沼などを渡って死骸同様の守安を擔(かつい)で来たのだ。是が人間に出来る業だろうか。

 斯(こ)うと気の附いた時、守安の心中は鼎(かなえ)の沸く様に騒いだ。彼は手鳴田を叱かった。
 「之を見よ。手鳴田、之に勝る証拠が何処に在る。戎瓦戎は人を殺したので無く助けたのだ。汝の見た時、戎の擔(かつ)いで居た人は死骸で無く、此の守安で有った。汝は彼を悪人と誣告(ぶこく)《わざと事実を偽って告げる事》する為に来て、却って彼の善人であることを証明したのだ。」

 打ち消す事の出来ない証拠に手鳴田は喁(ぐう)の音も出ない。守安は語を継いで、
 「私は汝が長鳥と称して、妻子と共に下宿して居た時、隣の部屋に住んで居たから、(手鳴田は是だけ聞いて「エ、エ」と叫んだ。」)汝の悪事は皆知って居る。汝が戎瓦戎を引き入れて、ユスろうとした時も、私は部屋に居た。汝の罪悪を数えれば、今汝が戎瓦戎の罪として言い立てたよりも多い。

 直ぐに巡査を呼んで来れば恐らく汝は、首の無い人だろう。けれど今は許して遣るから、直ぐに米国へ渡るが好い。汝は親子三人と言うけれど、汝の妻は既に死し、汝には妹娘麻子が有る許りだ。二人の旅費ならば是だけで沢山だ。」
と言い、又一枚の大札を出して渡し、
 「汝が米国へ着いた上、同地の銀行で受け取る様に、余が為替を組んで置いて遣る。此の上二日と此の国に猶予したら命が無いぞ。」

 手鳴田は夢に夢を見る心地である。自分が強請(ユスリ)に来た其の種は悉く無効と為り、却って自分の罪悪を見破られたのに、猶この様な手当てを受ける。之は何と言う事だろう。彼の生涯の経験に此の様な理由は絶無である。守安は只一言
 「之は水塿(ワーテルロー)の報いだぞ。」
 手鳴田は合点が行った。
 「アア水塿で士官を助けた。アア貴方は本田ーーー」

 守安「黙れ、明日の日の暮れる迄に船に乗れ。」
 守安は退いた。手鳴田は立ち去った。
 此の後手鳴田は米国から守安に書を寄せて、其の身が水塿で本田大佐を何の様にしたかを白状の如く書いて知らせた。彼は実際に本田を助けもしないのに、助けた様に見せ掛けて多くの利益を得たのを、却って自分の手柄の様に誇るのだろう。守安は却って今迄の身分と父との思い違いを喜んだ。

 自分の父が手鳴田の様な者に、恩を受けたかと思うと、何と無く気色が悪く感じたが、恩を受けたので無いと知れば、生涯の重荷が全く消えて了まった様だ。爾(そう)して手鳴田は米国で奴隷商人と成ったと言う事だが、その後は何うしたか、音も無く消えて了まった。
 其れは扨て置き、守安は、手鳴田を叱して応接室(おうせつま)から退く時、もう戎瓦戎に対する尊敬の念が、胸に潮の如く湧いて居た。彼は直ぐに奥に行き、忙(せわ)しい様に小雪に向かい、

 「サア是から直ぐに、外へ出るのだ、一緒に、一緒に」
と言い置いて部屋に帰り、自分も身支度に取り掛かった。
 やがて小雪が支度をして来た時は、早や門まで馬車が来て居た。爾(そう)して相携えて之に乗るが否や、守安は御者に伝えた。

 「アミー街七番地へ行くのだ。オオ急ぎ。」
 小雪の顔は一時に笑みに頽(崩)れた。。
 「オヤ阿父さんの所へですか、嬉しい事ねえ。実はね、先日来、阿父さんが見えませぬから、幾度も下女を聞きに遣りますけれど、田舎へ行って未だ帰らないと言うのですよ。今日あたりは自分で行って見たいと思って居ましたの。」

 守安は胸に溢れる新たな念を小雪に知らさない事が出来ぬ。
 「私が堡塁から貴女へ上げた手紙を、貴女は受けたらなかったと言いましたねえ。」
 小雪「先達ても爾(そ)うお問いでしたけれど、私はその様な手紙を受け取った事は有りません。」
 守安「もう何も彼も分かりました。其の手紙を阿父さんがが受け取ったのです。オオ小雪、小雪」
と急に叫んで、

 「世に貴女の阿父さんの様な、大善人が又と有りましょうか。其の手紙を見た為に直ぐに私を救う気になり、危険を冒して堡塁へ来たのです。今思うと堡塁に居るうちに為さった事は、他人には真似の出来ない働きでしたが、私が怪我して倒れるが否や、直ぐに抱き起して、十重二十重に囲んで居る官兵の目を忍ぶ為め、下水道へ潜り入り、爾(そう)して地の下の真っ暗な穴の道を幾哩も辿り、命掛けなる底無し沼などを渡って、終に此の世まで私を連れ出ました。」
と言い、更に様々に自分の知り得た功徳を述べ立て、

 「若し今の世に聖人が有るなら、阿父さんこそ其の人です。」
と有らん限りの言葉を以て褒めた。
 この様な間にも戎瓦戎は、何の様な容態だろう。果たして猶(未)だ生きて居るだろうか。守安も小雪も其の辺の懸念は少しも持たない。健全な人とのみ思って居る。其のうちに馬車はアミー街に着いた。

 守安は激しい感動に襲われて心が迫り、人に取り次がせなどする暇が無い。躍り入って直ぐに二階に上り、窓の戸を叩くと、中に「お入り成さい」
との返事が聞こえた。
直ぐに戸を開いて中に入った。小雪も続いて入った。

 若し今一時間、否三十分遅かったならば、小雪も守安も大恩人の死に目に逢う事が出来なかっただろう。全く守安が小雪を連れ、茲へ来ることに成った次第を考えて見ると、神の引き合わせでは無かったかと迄に思われる。戎は此の時、自分の前に彼の小雪の幼い頃の服を置き、一方には聖僧の片身の燭台に火を灯し、悄然と座して居た。

 戸の開くと同時に
 「阿父(おとっ)さん」
と懐かしく響く小雪の声が、何の様に彼の耳に聞こえたか。
 「オオ小雪、小雪、良く来て呉れた。」
と言いつつ又守安の姿を認め、

 「もう小雪などと呼び捨てには出来ませんが、何うか許して下さいよ、守安さん。」
と詫びた。実に彼は、先に守安に打ち開けた丈の事なら、守安の妻を小雪と呼び切る資格は無い。守安は此の語を聞き、胸が迫って言葉が出ない。僅かに言った。
 「許して下さいとは私の言う事です。許して下さいと言うぐらいでは、貴方に対する私の罪は消えません。戎は此の言葉が耳には入らない。只小雪に昔一緒に居た時の通りに、親しくせられるのが嬉しいのだ。

 彼は垂死の顔に笑みを浮かめて、唯だ小雪が我が膝に寄り我が肩に縋(すが)り、我が頭の白髪を弄(もてあそ)ぶに任せて居る。此の様を見ると、何うして唯の一時でも此の人を悪人の様に疑うことが出来たかと守安は自分の心が怪しい様に感じられる。彼はもう一度謝罪しなければと、戎の前に平伏(ひれふ)す程にして、

 「阿父さん、限り無き貴方の功徳、貴方の慈悲、貴方の御恩が、肝に銘ずるほど良く分りました。貴方は堡塁から下水の樋を通って私を救うて下されました。人の通る事の出来ない底無し沼をもお渡りでした。然るにその様な事は言わず、私が怪しんで話しても、知らぬ顔でお聞きなさって、却って御自分の身の罪を数え、私などに渇仰(かつぎょう)《あこがれ慕う》することをお許し為さらない。

 何故一言、汝を助けたは此の身だと仰って下さいません。何故一言、己は蛇兵太を許したのだと仰って下さいません。何故己は斑井市長で有ったのだと昔話を成されません。もう悉く分かりました。分かりましたから、お詫び方々お迎えに来たのです。私の罪を許して下さらば、サア直ぐに馬車に乗り私の屋敷へ行きましょう。」

 戎の顔には初めて真の満足の笑みが現れた。彼は弱い声で言った。
 「其のお志は有難い。直ぐにも同道したいのです。けれどもう出来ません。私は今死ぬるのです。貴方がたが来て下さったから、少し心が引き立って、此の様に話も出来ますが、小雪と貴方の顔が見えなければ、もう死んで居る所です。ナニもう直ぐです。もう直ぐです。」
 全く直ぐにでも死に相な声である。
 小雪も守安も一時に魂消(たまげ)た。



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