巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十五回、『段倉家』(一)

 蛭峰家の隣に越して来た暮内法師が何をするか。華子嬢の運命はどうなるか。これはしばらく後のことに譲り、話は段倉家の事柄に移る。
 既に段倉夫人が蛭峰の家に知らせて来た通り段倉嬢と皮春小侯爵との縁組は全く話しが決まり、いよいよ土曜日の夜をもって段倉邸にて約定取り交しの式を行うことになった。

 約定の取り交しはほとんど結婚と同じ事である。その翌日をもって結婚するのだ。段倉男爵はこの婚礼を持って、傾きかけた我銀行の信用を回復しようとし、大いにその式を盛んにする計画を決めた。およそパリーの貴顕紳士(きけんしんし)《身分の高い人》で段倉からこの式場に列席すべく招待状を受けない人は無い程であった。パリー全体が段倉家に集まると言っても良い。

 花嫁の結婚資金が五十万フラン(現在の七億六千万円)、これさえ既に驚くべきほどであるのに、花婿の持参金がその六倍の三百万フラン(45億6千万円)と言うのである。勿論パリー中の人々がうらやみながら口々に噂した。これだけの金は双方が約定取り交しの式場に持って行き、調印とともに公証人の手へ渡し、新夫婦の名義をもって段倉銀行に預け入れる定めである。

 しかしこれはただ差し当たりの金額である。婚礼が済んだ後に花婿及びその父から段倉銀行に預ける金はどれほどの額になるか知れない。先祖代々皮春家が吝嗇(りんしょく)《けち》と言われるほど倹約して、或いは穴倉に、或いは地の底に埋め、或いは井戸の底に沈めなどしてある無数の金がことごとく段倉銀行へ移り、鉄道やその他の事業に用いて利殖せられることになるだろうとは、耳の早い人々のひそひそ話である。果たしてその通りになる日には全く株式市場や金融界の相場を狂わせるのに足りるだろう。

 とはいえこのうらやむべき縁談は少しの骨折りも無く熟したわけではない。段倉男爵が夕蝉嬢を説き付けるのにも並大抵でない手数が掛かった。嬢がもし普通の少女なら別に説き付けるというほどの面倒にも及ばずして、ただ父の威光をもって押し付けることも出来ようけれど、嬢は中々に気の強い性質で前から結婚と言う事を嫌い、自分は音楽をもって終身独立すると言い、数年前から網里女史というその道に秀でた婦人を家庭教師に雇い、更にその上に絵を習って、今では十分、絵と音楽とどちらを職業にしても、身を支えられるだけの腕前にはなっている。

 そうして日頃希望している所は、どうかイタリア辺りに修行に行き、音楽道の奥義を究めたいというのにあって、時々網里女史にその相談を持ちかけているようだ。このような娘を説得するのであるから、段倉も普通のやり方では説得できず、この数日間に渡って説得を続け、ついには我銀行の実際の事情を打ち明け、折り入って頼み込んだ。

 段倉銀行のおおよその内情は読者の知るとおりである。スペイン公債の失敗に引き続き、東方の取引銀行がどういうわけか不意に二箇所まで破産して少なからず影響を受け、金を引き出す人ばかりあって、払い込む人の更に無い有様となっている。このような場合に立ち至っては普段幾千万の融通を自由にし、ほとんど金の利殖法に困るほどの大銀行でも、意外に早く絶命するもので、普段の取引が広ければ広いだけますますその死に際が脆(もろ)いのだ。

 特に段倉男爵が心を痛めているのは、前からパリー市慈善協会から委託されている五百五十万という大口が払い戻しの期限が差し迫っていることである。疑い深い同業者の中には段倉銀行が無事にこの期限を通過することが出来るかいかにと内々注目しているほどなので、男爵は必死の力をもってそれだけの金の準備に掛かり、ようやく関所を越えられるだけの見込みがついこの二、三日前に付いたものの、この金を無事に払いだした後が恐ろしい。そのときこそは皮春侯爵の持参金を利用するほかに活路が有りそうにも思われない。

 その代わり結婚の約定が無事に済みさえすれば直ぐに取引先の思惑も一変し、それに又、前から許可を得ている鉄道敷設企業もあることなので、三百万の金は一週間のうちにその十倍の実益となって、段倉銀行が破綻をも知られずに今までの地位を支えることが出来るのは勿論である。躓(つまづく)くのも早く起き直るのも又早いのがこの道の常である。

 段倉男爵はこれだけの現状を、娘の心に分かるように、イヤ、暗いところは実際より暗く、ほとんど恐れを抱かせるほどに、又明るい所は実際よりも明るく嬉しくてしょうがないと思えるほどに、言葉巧みに説得したため、嬢もついに我を折って父の意に従うこととはなった。イヤ従わなければならないことになった。

 しかし、嬢が心の底にはまだ何だか解け切れない所が残っている。「私は少しも男に安心することが出来ません。野西武之助でさえもあの通りでは有りませんか。もし急いで婚礼を済ませたなら、今私はどうなっているでしょう。世間からは笑われ、辱められ、身の置き所も無い程だろうと思います。このことを考えると、婚礼と言う言葉を聞く度に私は身が震えますよ。」と言うのが嬢のようやく承知した後の愚痴であった。

 愚痴は愚痴でも虫が知らせるというものではないだろうか。野西武之助との縁談を破って皮春小侯爵の妻となるのは、水を逃れて火に入るようなものではないだろうか。
 もし巌窟島伯爵に嬢のこの言葉を聞かすとすれば、女の神経の霊妙の作用に驚き、どのような顔をするだろうか。

第二百三十五回 終わり
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