巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu75

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

七十五、海の雇い人

 ピストルを持って命令した船長の手柄には、あの富村銀行の書記だけでなく、聞く者皆感心した。しかし奈良垣は書記の称賛(しょうさん)にも見向かず語り続けた。
 
 「我々はこの時から丸十二時間通しで、手漕(こ)ぎポンプを動かしていたのです。どうしてそう体が続いたか今思うと自分ながら不思議な気がしますが、真に命がけの場合には、非常な力が出るものです。けれど、いたし方が有りません。ポンプに休みが無いのと同じように、船に漏れて入る水にも休みが無く、少しづつ、少しづつその嵩(かさ)が増して来ます。一時間に凡(およ)そ、二寸(6cm)位づつ、ハイ二寸とは極めてわずかでは有りますが、十二時間続くと二尺(60cm)以上になります。それより前に既に三尺入っていましたから、合わせて五尺(1.5m)に及びました。どうにもこうにも、もう仕方がありません。」

 「頑固な船長も、『いよいよ我々は船を捨てて自分の命を助けなければならない時が来た。』と叫びました。誰が否と言いましょう。我々は船を大事には思いますが、船より自分の命を愛します。
 更に船長から、『ボートを下ろせ』との号令が出るのを待ち兼ねて、ボートを下ろし、我々七人これに乗りました。後で思うと全く一刻の猶予も出来ないほど危険が差し迫っていたのです。」

 「それでも船長は後に残りました。何んと言ってもボートに乗り移ろうとしませんから、私が再び船に乗り移って、船長の腰を抱いてボートに投げ込むようにして、そうして私も再びボートに帰りましたが、この時親船は、水で船室が張り裂けました。異様な物音と共に水面をぐるぐる舞い始め、三度ほど回って、ついに沈みました。後には大きな渦が巻くのみでした。」

 「それから我々はボートで海上を三昼夜漂いました。食う物も飲む物も無いのです。三日目の昼、ジロン号が通るのを遥かに見受けましたから、救助を請う信号を伝えてやっと救われ、この通り帰って来たのです。」

 語り終わって我が後に立ち並ぶ水夫一同を顧み、何んと、「皆の衆、今私が旦那様に申し上げた所に、間違いは有りはしまいか」と聞いた。一同は異口同音に「イヤ、少しも違った所は無い」と答えた。
 森江氏は静かに聞き終わったが、少しも恨めしい顔はしない。  「イヤ、一同の好く働いてくれた事はただ感心の外は無い。だが、一同の給金は今日までどれほどになっている。」
 奈良垣;「いいえ、貴方の持ち船を沈めた上に、当たり前の給金を頂いては済みません。幾らでもお見計らいで。」

 給金の外に楽しみの無い水夫等がこうまで言うのは、日頃森江氏が深く雇い人に信頼され慕われていることが分かる。
 森江氏;「イヤ、船が沈んだのは誰の仕業でもなく、全く天の思し召しだ。私は船が沈んでも、無事に帰っても、同じ様に神に感謝しなければならない。兎も角、月給は何月分になっている。」
 奈良垣は止むを得ないという語調で、「それではーーー、ハイ、丁度三月分残っています。」

 森江氏は会計に向かい、「小暮、それでは一同に二百フランづつ払らってやってくれ。今までならばまだその上に二百フランを別に永年正直に勤めてくれた褒美として与えるところであるけれど、今は僅かに残っている金子も、人の金子で、自分の物ではないのだから、残念ながら仕方が無い。」

 奈良垣は更に仲間一同に向かい、小声で何やら相談した末、「二百フランも払って頂いては済みませんから、一同、三月分の月給の内金として五十フランづつ頂いて置きたいと申します。後は何時までも待ちますことにーーー。」
 森江氏;「イヤ、お前などの好意は深く森江良造の胸に響く。けれど、それには及ばないから一同二百フランづつ受け取ってくれ、そうして、早く他の船主を探し、口のあり次第、その人に雇われてくれ。」

 他の人に雇われよとは解雇の言い渡しと同様である。奈良垣は非常に驚いた様子で、しばらくは言葉も出なかったが、ようやくにして、又一同と相談して「一同永らく当家に奉公した者で、今更外の船主に雇われる心は有りませんから、新たな船をお作りになるまで、主人を決めずに待っている事にします。それとも何か我々に対してご立腹の事でも有りましょうか。」

 この正直な、そうして忠義な言葉を聞き森江氏はホロリと一滴の涙を垂らした。イヤ、何で立腹をするものか。有りのまま言えば、もうこれきりで新たな船は作らないのだ。作るだけの資力が無いのだ。それだからどうか。一同新たな主人を取ってくれ。」

 奈良垣;「エ、資力が無いと仰有(おっしゃ)いますか。それほどならば決して給金などお払い下さるに及びません。巴丸が水底に沈んだ後で、何で我々が給金を欲しがるでしょう。なあ、皆の衆。」
 一同;「そうとも、そうとも」
 奈良垣;「我々は船よりあとへ、命が残っているのが幸いじゃないか。月給などは頂かなくても、水夫の身に不自由は無い。なあ、皆の衆。」

 陸の雇い人は、皆自分から口実を作り、一人去り、二人去って、皆居なくなったのに、それよりも遥(はる)かに労多くして、給料は少ない海の雇い人はどうしてこうまで誠意を尽くしてくれるのだろう。森江氏はますます耐え難い思いではあるが、

 「イヤ、ここのところはどうか、私の言っていることを分かってくれ。この後に又顔を合わせることも有るだろうから、さあ、小暮、俺の指図通りにしなさい。オイ、仁吉、お前も下に行って、俺の指図が良く行われるか見届けてくれ。」

 こう言ってようやく一同を下に降ろした。後に残るのは、妻と娘と、かの富村銀行の書記である。森江氏の本当の苦労はこれから始まると言うものだ。

第七十五終わり
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