巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu78

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

七十八、一通の手紙を差し出した

 しょんぼりとしてパリーから帰って来た森江氏は、妻にも娘にも何事も言わない。ため息一つさえ聞かさない。なるべく妻子に悲しい思いをさせたくないと思っているのだ。けれど、氏が努力すればするほど、妻子の方はそれを察するのだ。察して悲しさが増すのである。

 氏はほとんど何時もの通り妻と娘を抱きしめて、親愛を表した上で、静かに自分の部屋に入り、会計長小暮を呼び寄せた。そうして少しの間戸を閉めて、何事を話したか知らないけれど、余程重大な意味であったと見え、やがてこの部屋を出た小暮、自分で自分の毛を掻きむしる様にして、会計室にへ退く様子が、何か恐ろしさのために発狂でもしたのかと疑われるばかりであった。

 こうだろうと考えた森江氏の妻は直ぐに緑嬢に目配せをした。嬢は小暮の傍に駆け寄って、「どんな話でした。」と小声で聞いた。
小暮は返事する余裕も無い。ただ目を丸くして、「このような事が信じられましょうか。」と呟いて立ち去った。ああ、聞かなくても分かっている。森江氏は最早、百計が尽きため、いよいよ破産になることを会計に伝えたのだ。間もなく小暮が会計の帳簿と有り金をひとまとめにした袋を持って、森江氏の部屋に行ったので、いよいよそうと分かる。

 この夜、妻子は額をつき合わせて、ひそひそと心配を語っていた。どんなに心配しても追いつく事ではないけれど、心配せずには居られないのだ。何時もなら家内一同とっくに寝た頃であるのに、家の主が一部屋にこもって出てこないので、なお更気にかかるところがあり、眠るに眠れないのだ。そのうちに真夜中を打つ時計の音が聞こえた。森江氏もこの音に気が付いたのか、間もなく部屋を出て、妻子の居る部屋の脇を通り、寝室に退いたらしい。

 森江夫人は娘に向かい、「さあ、お父様ももうお休みのようだから、貴方も下がって寝なさい。私も寝る事にしますから。」と言った。娘は「ハイ」と言って寝に行った。その後に夫人は凡そ三十分ほども考えていたが、どうしても心配で仕方が無いので、そっと森江氏の寝室を覗きに行った。行くと自分より先にん覗いている者がある。それは娘だ。これも心配の為、寝たと見せかけ様子を見に来たのである。

 娘は抜き足で母の傍に寄り、ほとんど聞き取れないほどの小声で、「お書きものをしていらっしゃいますよ。」母は「そう」と言って、同じく覗いた。なるほど、額に手を当てて、何かを考えてながら、そろそろと筆を動かしている。余程大切な書類と見える。
 娘の方はそこまでは気が付かないが、母の方は気が付いた。書いているその紙が公証に用いる罫紙である。確かに遺言状を書いているのだ。その心中は知るべしだ。

 翌日は何事も無かった。多分十月五日という大事な日が来るまでは、何事も無いのだろう。しかしただ森江氏が、何時もより妻子に対して親切な事が目に付いた。何も口では言わないけれど、親切である。ほとんど労(いた)わるほどに見える。晩餐が済んで再び居間に退こうとする時、森江氏は娘を我が膝に抱き寄せた。そうして離すことが出来ない様子で、娘の顔を我が胸の辺りにに押し当てて居た。

 後で娘は母に言った。「お父様は、あのように静かにしていらっしゃいましたけれど、非常に胸が動悸を打っていましたよ。」と、母は返す言葉も無くため息をついた。
 次の二日は別に変わったこともなかったが、何しろ一家がますます陰気になって行くばかりで、親子は心配で仕方が無いから、長男で真太郎と言うのへ、至急帰れとの、手紙を出した。

 そもそもこの真太郎というのは、前にも少し記したが、父の営業を継ぐよりも軍人になることを志願して、既に士官学校を卒業し、少尉となって、或る隊に所属している。年は二十二歳だけれど、勇気も気構いも、人に優れている為、隊中の評判も好く、遠からず昇進も見えているのである。

 もっともその軍人となった事には父は賛成しなかったが、兎も角、一家の中で、最も多く父を動かす力が有るのはこの真太郎である。これが帰ったと言って、この家の難場を如何する事も出来ないが、それでも今は、長男である者が、父の傍を離れているべき場合では無い。共々に家に居てくれさえすれば、それだけでも母と妹も気丈夫に感じるのだ。

 いよいよ明日が難場という四日の夕方である。森江氏は前から娘に与えてある自分の居間の鍵を取り上げた。娘はそのことを母に話すと、「明日はなるだけ、貴方がお父様の傍を離れないようにしていておくれ。」と母は言った。更にこの事を、未来の夫たる江馬仁吉に話すと、彼の返事もほとんどこれと同じで、「少しでも貴方は父上の傍を離れてはいけません。」と言うのであった。森江氏の胸にどの様な決心が着いているのかは、妻にも仁吉にも薄々悟られているのだ。

 いよいよ明けて大難場の日となった。娘は朝飯の後、直ぐに父の部屋に行った。けれど、「しばらく来ないようにしてくれ。」と、何時に無く断られた。仕方なく階段を上がったり、降りたりして、それとなく見張るようにしていたが、早や十時となって、何度目かに階段を上った時、その中ほどの、丁度この前に、富村銀行の書記という人に出会った辺に、見知らぬ人が立っていて、強いイタリアの訛(なまり)を帯びた言葉で、「貴方が緑嬢ですか。」と聞かれた。

 何事とも知らず、「ハイ」と答えると、「では、直ぐにこれを開いてお読みください。」と一通の手紙を差し出した。受け取って見ると、寄こした人は「船乗り新八(シンドバット)」とある。嬢はほとんど忘れていたが思い出した。そう、そう、アノ書記が確か、他日この名で手紙が来る時が有るからと言った。

 中には非常に奇妙な事が書いてあるとは知る由も無く、直ぐに封を切った。

第七十八終わり
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